マユツバ
プロローグ
1
特産物はおいなりさん。
わたしの住む村は絵に書くような喉かで、青い空に広がる田畑。夏休みの今なら麦わら帽子が良く映えるんだ。
未だ雨の匂いが残る一本道を立ち漕ぎしながら、わたしはお祖母ちゃんの家へ向かっている。
「マユちゃん、おはよう」
野菜を積んだトラックが並走してきて、お裾分けをしてくれた。
瑞々しいトマトをかじったら何処までも行ける力が沸き、ペダルを力強く踏み込つつ、お礼を伝えた。
「おいしい、おじさんちのトマトは最高だよ!」
「あはは、そうかい、そうかい。マユちゃんが太鼓判を押してくれると頼もしいよ」
運転席のおじさんが窓から顔を出してくる。
「あんたは黙って運転しときな! あ、マユちゃんはお祖母ちゃんの所に行くのかい?」
「うん。おいなりさんを一緒に食べようと思って」
カゴの中の包みを指差す。トマトの汁を舐め取った人差し指は、生暖かい風を感じた。
二人は気を付けていくんだよ、と念を押してからスピードを上げていく。あっという間にトラックは見えなくなり、灰色の煙が残る。
こほん、咳をするわたし。
わたしは他の人より感覚が鋭いらしい。特に嗅覚。鼻をこすり、まとわりつくガソリンの臭いを紛らわす。
なかなか取れない臭いに自転車を止め、包みを鼻の前まで持ってくる。
ああ、ママのおいなりさんは今日も美味しそうだ。
「姫様にお持ちする前に、包みを開けてはいけませんよ」
と、目の前に影。何処からやって来たのか聞くだけ無駄な男が立っている。
「イズナ、わたしがそんな真似をすると思う?」
「お言葉ですが、マユ様のつまみ食いの回数は両手では足りません」
両手を開き、翳される。
イズナの手はやっぱり大きい。そして傷だらけだ。血の乾かない新しい傷を悪戯につついても、イズナの表情は変わらない。
ママ曰く、イズナは何百年と生きているうち、笑顔と泣き顔を忘れてしまったそうだ。
で、その代わり、小言を言う時にする呆れ顔を手に入れたとわたしは思っている。
実はイズナは青い尾を持つ、一族の中でも特殊なキツネ。眼鏡をしているのは青みがかった瞳を誤魔化す為だ。縁を持ち上げながら注意されると腹立たしさが倍増する。
イズナはわたしの教育係をお祖母ちゃんから言い付けられていて、キツネと人のハーフのわたしがおかしな真似をしないかも見張っていた。
こちらこそお言葉ですが、わたしはキツネより人間に近い。
まず尾が無いから自転車に乗れる。証明しようと再びサドルを跨ぐと、ぐっ、華麗に押し止められた。
「なーにーよー、お祖母ちゃんの家に行かなきゃ行けないんですけど?」
「その前に昨夜は何処に行かれてたんですか? よもやクラスメイトの高田君と花火大会へ出掛けられたんじゃないでしょうね?」
「……随分とお詳しいことで」
道の真ん中で自転車を押し合う、わたし達。
「マユ様、貴女は御自分の立場がお分かりですか?」
「高田くんに恋する乙女ですけど?」
全体重で自転車を押す。
イズナの涼しい顔が忌々しい。イズナはその罪悪感など微塵もない顔で、わたしの今までの恋愛を壊してきた。
やっと巡り会えた高田くんに対しては教師という仮面を被って妨害してくる。
「乙女ではなく、マユ様は女キツネですが」
「あのさ、女キツネって人間の言葉の意味だと悪女って意味なんですけど? ズル賢いって意味なんですけど?」
「……それ最高じゃないですか」
イズナは急に脇に寄る。バランスを崩し転びそうなわたしは、慌ててハンドルを手放す。
「マユ様、貴女には然るべきお相手を姫様が見付けて下さいます。それまでは軽率な真似をなさらないように」
「それはママのこと?」
イズナは包みを手にしていた。倒れた自転車のタイヤがくるくる空回りしていて、まるでわたしみたい。
「ママはパパが好きで結婚したのよ」
「承知しております。ですが、一族の姫君としては間違った選択であったと思われます」
「じゃあ、わたしは間違って生まれてきた子じゃない!」
もう何度目だろう。このやりとり。
一族の掟を破って人間と結婚したママは、お祖母ちゃんの力添えが無ければこの村で生活出来ない。半妖と言われるわたしが大事に扱われるのも、お祖母ちゃんのお陰。
長年繰り返してきた駄々に涙は出てこない。イズナはぽんぽん、と相変わらずわたしの頭を叩く。
心の中じゃ、どんな風に考えてるか知らないけど、こうしてイズナに頭を叩かれると救われる。
わたしはここに居ていいんだ、間違いなんかじゃないって言ってくれてるみたい。
「とにかく、姫様の所に行きましょう」
「うん」
イズナが自転車を起こしてくれる。
「イズナ、後ろに乗っていいよ」
「いえ、歩きますから」
「いいから、乗りなさいよ。未来の姫様の命令」
「……はいはい、こんな時だけ姫様になるんですから」
イズナの重みを感じ、ペダルを踏み込む。
お祖母ちゃんはわたしを後継者にしたがっているけど、それは無理。半妖のわたしは一族の長の前に仲間とも認めて貰えない。
―――だから、わたしはママと同じように人に恋をするんだ。そう、この夏が終わる前に。
わたしの住む村は絵に書くような喉かで、青い空に広がる田畑。夏休みの今なら麦わら帽子が良く映えるんだ。
未だ雨の匂いが残る一本道を立ち漕ぎしながら、わたしはお祖母ちゃんの家へ向かっている。
「マユちゃん、おはよう」
野菜を積んだトラックが並走してきて、お裾分けをしてくれた。
瑞々しいトマトをかじったら何処までも行ける力が沸き、ペダルを力強く踏み込つつ、お礼を伝えた。
「おいしい、おじさんちのトマトは最高だよ!」
「あはは、そうかい、そうかい。マユちゃんが太鼓判を押してくれると頼もしいよ」
運転席のおじさんが窓から顔を出してくる。
「あんたは黙って運転しときな! あ、マユちゃんはお祖母ちゃんの所に行くのかい?」
「うん。おいなりさんを一緒に食べようと思って」
カゴの中の包みを指差す。トマトの汁を舐め取った人差し指は、生暖かい風を感じた。
二人は気を付けていくんだよ、と念を押してからスピードを上げていく。あっという間にトラックは見えなくなり、灰色の煙が残る。
こほん、咳をするわたし。
わたしは他の人より感覚が鋭いらしい。特に嗅覚。鼻をこすり、まとわりつくガソリンの臭いを紛らわす。
なかなか取れない臭いに自転車を止め、包みを鼻の前まで持ってくる。
ああ、ママのおいなりさんは今日も美味しそうだ。
「姫様にお持ちする前に、包みを開けてはいけませんよ」
と、目の前に影。何処からやって来たのか聞くだけ無駄な男が立っている。
「イズナ、わたしがそんな真似をすると思う?」
「お言葉ですが、マユ様のつまみ食いの回数は両手では足りません」
両手を開き、翳される。
イズナの手はやっぱり大きい。そして傷だらけだ。血の乾かない新しい傷を悪戯につついても、イズナの表情は変わらない。
ママ曰く、イズナは何百年と生きているうち、笑顔と泣き顔を忘れてしまったそうだ。
で、その代わり、小言を言う時にする呆れ顔を手に入れたとわたしは思っている。
実はイズナは青い尾を持つ、一族の中でも特殊なキツネ。眼鏡をしているのは青みがかった瞳を誤魔化す為だ。縁を持ち上げながら注意されると腹立たしさが倍増する。
イズナはわたしの教育係をお祖母ちゃんから言い付けられていて、キツネと人のハーフのわたしがおかしな真似をしないかも見張っていた。
こちらこそお言葉ですが、わたしはキツネより人間に近い。
まず尾が無いから自転車に乗れる。証明しようと再びサドルを跨ぐと、ぐっ、華麗に押し止められた。
「なーにーよー、お祖母ちゃんの家に行かなきゃ行けないんですけど?」
「その前に昨夜は何処に行かれてたんですか? よもやクラスメイトの高田君と花火大会へ出掛けられたんじゃないでしょうね?」
「……随分とお詳しいことで」
道の真ん中で自転車を押し合う、わたし達。
「マユ様、貴女は御自分の立場がお分かりですか?」
「高田くんに恋する乙女ですけど?」
全体重で自転車を押す。
イズナの涼しい顔が忌々しい。イズナはその罪悪感など微塵もない顔で、わたしの今までの恋愛を壊してきた。
やっと巡り会えた高田くんに対しては教師という仮面を被って妨害してくる。
「乙女ではなく、マユ様は女キツネですが」
「あのさ、女キツネって人間の言葉の意味だと悪女って意味なんですけど? ズル賢いって意味なんですけど?」
「……それ最高じゃないですか」
イズナは急に脇に寄る。バランスを崩し転びそうなわたしは、慌ててハンドルを手放す。
「マユ様、貴女には然るべきお相手を姫様が見付けて下さいます。それまでは軽率な真似をなさらないように」
「それはママのこと?」
イズナは包みを手にしていた。倒れた自転車のタイヤがくるくる空回りしていて、まるでわたしみたい。
「ママはパパが好きで結婚したのよ」
「承知しております。ですが、一族の姫君としては間違った選択であったと思われます」
「じゃあ、わたしは間違って生まれてきた子じゃない!」
もう何度目だろう。このやりとり。
一族の掟を破って人間と結婚したママは、お祖母ちゃんの力添えが無ければこの村で生活出来ない。半妖と言われるわたしが大事に扱われるのも、お祖母ちゃんのお陰。
長年繰り返してきた駄々に涙は出てこない。イズナはぽんぽん、と相変わらずわたしの頭を叩く。
心の中じゃ、どんな風に考えてるか知らないけど、こうしてイズナに頭を叩かれると救われる。
わたしはここに居ていいんだ、間違いなんかじゃないって言ってくれてるみたい。
「とにかく、姫様の所に行きましょう」
「うん」
イズナが自転車を起こしてくれる。
「イズナ、後ろに乗っていいよ」
「いえ、歩きますから」
「いいから、乗りなさいよ。未来の姫様の命令」
「……はいはい、こんな時だけ姫様になるんですから」
イズナの重みを感じ、ペダルを踏み込む。
お祖母ちゃんはわたしを後継者にしたがっているけど、それは無理。半妖のわたしは一族の長の前に仲間とも認めて貰えない。
―――だから、わたしはママと同じように人に恋をするんだ。そう、この夏が終わる前に。