マユツバ
対価
1
玄武の屋敷は建物と言うより、工場。屋根には煙突があり、もくもく漂う。
葛の葉曰く、住居区は玄武の作った結界内にあるそうで、目を凝らしてみると、確かに。うっすら膜みたいなものが見える。ドーム型の膜の上には華が積もり、光を遮っていた。
ぼう、頬の辺りが熱くなる。街灯代わりの松明は玄武の屋敷に続く道を照らす。華が無い道は狭いものの歩きやすい。
わたし達は一列になって進み、先頭はお園、続いて鎧を着たキツネ達。彼女等はここに来る間ずっと揉めており、汚い言葉が時々漏れてくる。外に出ていたキツネも居たが、その声を聞くと室内へ引っ込む。
一方、玄武は後ろで寝ている。穏やかな寝息を背中に感じつつ、わたしは葛の葉の言った言葉を思い出す。
寝室を共になさって、なんて。葛の葉は一体何を考えているんだろう。わたしだってその辺の知識はあるんだ。大体、玄武とは今日会ったばかり。わたしの中で、そういう対象になる訳もない。
「――って、今って何時ですか?」
葛の葉もわたしを伺っていたのか、質問と同時に目が合う。
「夏休みだって言っても、無断外泊なんてパパが心配しちゃう――」
言いながら、ひとつ閃く。そうだ、寝室を共にするもなにも、わたしの家じゃ無断外泊禁止じゃないか。
実に正当な理由を思い付き、つい勝利の笑みが浮かんでしまう。と、葛の葉が扇子で唇を隠す。どうやらあちらもほくそ笑んでいるらしい。
「あやかしの世界と人の世界では流れる時が違うの――そうねぇ、こちらの一晩があちらの一瞬。瞬きをするようなものよ」
「瞬き?」
「えぇ、だからご心配なさらず」
畳む扇子で前方を指す葛の葉。すると屋敷の入り口が軋みながら開かれ、出迎えのキツネがやってきた。お園達と同じ様、わたしにも手拭いが用意される。
わたしは素早く瞬き、その柔らかな質感をイメージしてみた。やっぱり葛の葉の説明がピンとこない。
「玄武様、着きましたよ?」
手拭いを受け取るにも玄武が乗っていたら無理だ。呼び掛け、車体を揺らして促すも眠りは深そう。反応が全く見られない。
「マユ様、玄武の坊っちゃんをそのまま寝室へ連れて行っておやりよ」
足の汚れを落とした葛の葉が先に上がり込む。間取りを把握しているのだろう、馴れた振る舞いだ。天井を支える太い柱や金色の屏風など見飽きたとばかり、素通り。工場みたいな外観からは想像しにくい高級感に、わたしは居心地が悪くなる。
「誰か、坊っちゃんをおぶっておやり」
主が帰ってきたとあって、出迎えの数は多い。葛の葉は手持ち無沙汰な一匹に言い付け、彼が軽々と玄武を背負う。
気持ちが沈む中、自転車は一気に軽くなった。
「それとマユ様の足も拭きなさい」
指示に正面のキツネが膝をつく。わたしは急いで手縫いを取り上げ、目線を同じにする。言われた通りしただけのキツネが傾げた。
「わたしは自分で出来ますので。大丈夫です!」
「しかし葛の葉様が――」
「重い鎧を着ているならともかく、わたしは身軽なんで」
なんならこの場でジャンプしても良かったが、玄武を背負ってわたしを待っているキツネを見たら、動けなくなった。
「どうした?」
お園に肩を叩かれる。表情は厳しいが、手付きは優しい。緊張を解してくれようとしているのが伝わってくる。
「具合でも悪いのか?」
「――いえ、そういう訳じゃ」
「じゃ、先に行くぞ」
「待ってください!」
離れていく腕にすがってしまった。お園は眉を潜めはするが、振り払うまではしない。
「何だ? 私に用か?」
「い、いや用って程じゃ……」
「今からお前は玄武様と寝るんだろう? さっさと行くが良い」
それは造作無い事と言われている様で、指先が硬くなっていく。
「は? 何故、強張るのだ? 怯えるような事など言ってないぞ」
お園は困った、と葛の葉へ会話を投げた。葛の葉はお園を離しそうもない指先を暫く眺め、ふむ、と唸る。瞬間、嫌な予感が体を駆け巡った。
「そうだわ! だったら、お園も加わればいいのさ!」
「は?」
「マユ様は初めてでいらっしゃるから怖いのよ! 大丈夫、痛いのは最初のうちだけ。それにお園も付けますから、ね?」
玄武へ近寄る葛の葉。
「坊っちゃん、マユ様とお園の両方の相手を出来るわよね?」
ぺしぺしぺし、容赦なく額を叩く音が響き、玄武はわたし達を痛そうな顔して確認――それから頷いた。
頷いてしまったんだ。
「と言う訳で、ごゆっくりー」
葛の葉が手を左にスライドさせ、頭を下げる。そうして恭しい態度をとるのはにやけが止まらないからだ。食い下がろうと力むと、お園に止められる。
「……お園さん?」
「行くぞ」
お園さんはそれでいいんですか、言わずもがな、わたしの目は語っていたらしい。お園は小さく顎を落とす。
「これはこれは! 今まで女に興味を示さなかった玄武様が半妖とお園くんを相手にするなど、器の大きさを感じます。なぁ?」
「ああ、ああ、カラクリと一緒で、変わり種がお好きなのでしょうな」
周囲から乾いた拍手が起こり、鎧等は肩を揺らした。すると玄武が背中から降りて場の空気を張り詰めさせる。彼等を咎めたりせず無視し通し、わたしを引き上げた。
「マユユ、バカにされたくなければ強くなるしかない」
「玄武様」
とても優しい抱擁だった。作り物の耳に真実を囁いてくる。玄武の喋り方は抑揚がなく棒読みが多いけれど、今は無駄な感情を乗せない言い方が心地いい。少なくとも嘘はないと思えるから。
「対価、だよ。マユユ」
「対価?」
「葛の葉を紹介された僕が姫様に従った様に、耳を貰ったマユユは僕にお返ししなきゃいけないんだ――僕はマユユが欲しい。ねぇ、マユユを頂戴?」
何処にこれ程の熱を秘めていたんだろう。抱き締める腕がわたしの呼吸を浅く、切るようにさせる。滲む視界の隅でお園と目が合った。
「玄武様、寝室はあちらです」
お園は崩れるみたいに膝をつく。
「うん。あ、やっぱりお園はついて来ないで」
「は、承知しました」
「待ってください!」
「ダメ、待たない」
抵抗もむなしく抱えられる。一同が玄武に道を譲り、葛の葉には笑顔で見送られた。
ただお園は一匹、俯いたまま。
「お園さん!」
角を曲がる前、わたしの呼び掛けに顔を上げてくれる。
――この時、わたしは生まれて初めて、嫉妬される側に居た。
葛の葉曰く、住居区は玄武の作った結界内にあるそうで、目を凝らしてみると、確かに。うっすら膜みたいなものが見える。ドーム型の膜の上には華が積もり、光を遮っていた。
ぼう、頬の辺りが熱くなる。街灯代わりの松明は玄武の屋敷に続く道を照らす。華が無い道は狭いものの歩きやすい。
わたし達は一列になって進み、先頭はお園、続いて鎧を着たキツネ達。彼女等はここに来る間ずっと揉めており、汚い言葉が時々漏れてくる。外に出ていたキツネも居たが、その声を聞くと室内へ引っ込む。
一方、玄武は後ろで寝ている。穏やかな寝息を背中に感じつつ、わたしは葛の葉の言った言葉を思い出す。
寝室を共になさって、なんて。葛の葉は一体何を考えているんだろう。わたしだってその辺の知識はあるんだ。大体、玄武とは今日会ったばかり。わたしの中で、そういう対象になる訳もない。
「――って、今って何時ですか?」
葛の葉もわたしを伺っていたのか、質問と同時に目が合う。
「夏休みだって言っても、無断外泊なんてパパが心配しちゃう――」
言いながら、ひとつ閃く。そうだ、寝室を共にするもなにも、わたしの家じゃ無断外泊禁止じゃないか。
実に正当な理由を思い付き、つい勝利の笑みが浮かんでしまう。と、葛の葉が扇子で唇を隠す。どうやらあちらもほくそ笑んでいるらしい。
「あやかしの世界と人の世界では流れる時が違うの――そうねぇ、こちらの一晩があちらの一瞬。瞬きをするようなものよ」
「瞬き?」
「えぇ、だからご心配なさらず」
畳む扇子で前方を指す葛の葉。すると屋敷の入り口が軋みながら開かれ、出迎えのキツネがやってきた。お園達と同じ様、わたしにも手拭いが用意される。
わたしは素早く瞬き、その柔らかな質感をイメージしてみた。やっぱり葛の葉の説明がピンとこない。
「玄武様、着きましたよ?」
手拭いを受け取るにも玄武が乗っていたら無理だ。呼び掛け、車体を揺らして促すも眠りは深そう。反応が全く見られない。
「マユ様、玄武の坊っちゃんをそのまま寝室へ連れて行っておやりよ」
足の汚れを落とした葛の葉が先に上がり込む。間取りを把握しているのだろう、馴れた振る舞いだ。天井を支える太い柱や金色の屏風など見飽きたとばかり、素通り。工場みたいな外観からは想像しにくい高級感に、わたしは居心地が悪くなる。
「誰か、坊っちゃんをおぶっておやり」
主が帰ってきたとあって、出迎えの数は多い。葛の葉は手持ち無沙汰な一匹に言い付け、彼が軽々と玄武を背負う。
気持ちが沈む中、自転車は一気に軽くなった。
「それとマユ様の足も拭きなさい」
指示に正面のキツネが膝をつく。わたしは急いで手縫いを取り上げ、目線を同じにする。言われた通りしただけのキツネが傾げた。
「わたしは自分で出来ますので。大丈夫です!」
「しかし葛の葉様が――」
「重い鎧を着ているならともかく、わたしは身軽なんで」
なんならこの場でジャンプしても良かったが、玄武を背負ってわたしを待っているキツネを見たら、動けなくなった。
「どうした?」
お園に肩を叩かれる。表情は厳しいが、手付きは優しい。緊張を解してくれようとしているのが伝わってくる。
「具合でも悪いのか?」
「――いえ、そういう訳じゃ」
「じゃ、先に行くぞ」
「待ってください!」
離れていく腕にすがってしまった。お園は眉を潜めはするが、振り払うまではしない。
「何だ? 私に用か?」
「い、いや用って程じゃ……」
「今からお前は玄武様と寝るんだろう? さっさと行くが良い」
それは造作無い事と言われている様で、指先が硬くなっていく。
「は? 何故、強張るのだ? 怯えるような事など言ってないぞ」
お園は困った、と葛の葉へ会話を投げた。葛の葉はお園を離しそうもない指先を暫く眺め、ふむ、と唸る。瞬間、嫌な予感が体を駆け巡った。
「そうだわ! だったら、お園も加わればいいのさ!」
「は?」
「マユ様は初めてでいらっしゃるから怖いのよ! 大丈夫、痛いのは最初のうちだけ。それにお園も付けますから、ね?」
玄武へ近寄る葛の葉。
「坊っちゃん、マユ様とお園の両方の相手を出来るわよね?」
ぺしぺしぺし、容赦なく額を叩く音が響き、玄武はわたし達を痛そうな顔して確認――それから頷いた。
頷いてしまったんだ。
「と言う訳で、ごゆっくりー」
葛の葉が手を左にスライドさせ、頭を下げる。そうして恭しい態度をとるのはにやけが止まらないからだ。食い下がろうと力むと、お園に止められる。
「……お園さん?」
「行くぞ」
お園さんはそれでいいんですか、言わずもがな、わたしの目は語っていたらしい。お園は小さく顎を落とす。
「これはこれは! 今まで女に興味を示さなかった玄武様が半妖とお園くんを相手にするなど、器の大きさを感じます。なぁ?」
「ああ、ああ、カラクリと一緒で、変わり種がお好きなのでしょうな」
周囲から乾いた拍手が起こり、鎧等は肩を揺らした。すると玄武が背中から降りて場の空気を張り詰めさせる。彼等を咎めたりせず無視し通し、わたしを引き上げた。
「マユユ、バカにされたくなければ強くなるしかない」
「玄武様」
とても優しい抱擁だった。作り物の耳に真実を囁いてくる。玄武の喋り方は抑揚がなく棒読みが多いけれど、今は無駄な感情を乗せない言い方が心地いい。少なくとも嘘はないと思えるから。
「対価、だよ。マユユ」
「対価?」
「葛の葉を紹介された僕が姫様に従った様に、耳を貰ったマユユは僕にお返ししなきゃいけないんだ――僕はマユユが欲しい。ねぇ、マユユを頂戴?」
何処にこれ程の熱を秘めていたんだろう。抱き締める腕がわたしの呼吸を浅く、切るようにさせる。滲む視界の隅でお園と目が合った。
「玄武様、寝室はあちらです」
お園は崩れるみたいに膝をつく。
「うん。あ、やっぱりお園はついて来ないで」
「は、承知しました」
「待ってください!」
「ダメ、待たない」
抵抗もむなしく抱えられる。一同が玄武に道を譲り、葛の葉には笑顔で見送られた。
ただお園は一匹、俯いたまま。
「お園さん!」
角を曲がる前、わたしの呼び掛けに顔を上げてくれる。
――この時、わたしは生まれて初めて、嫉妬される側に居た。