マユツバ
音羽の滝
1
わたしは部屋を与えられ、そこに豪華な食事が運ばれて来る。食べ切れるか不安な量を前にしながらも、お園の事が片隅から離れない。
この部屋は玄武の寝所から近い場所と聞く。まぁ、実際はカラクリ製作に夢中の玄武は寝所へ寄り付かないらしいけれど。ただ事実はどうあれ、鎧を着たキツネ達を始め、屋敷全体がわたしの扱いを変えた。
椀を並べるキツネの手が緊張で震えている。たぶん、その緊張はわたしに対してじゃない。玄武の所有物である、わたしへだ。
どんなに丁寧な対応をされても、内心は違うんじゃないかって疑うわたしには、煮物の味が薄く感じられた。決して不味い訳じゃなく、口に合わない。
葛の葉が首を傾げる。
「お口に合わなかったかい?」
質問に周囲の空気が強張る。もし、不味いなどと返せば、煮物を作ったキツネが罰せられるような雰囲気。慌ててかぶりを振る。
「い、いえ。とても美味しいです」
「そうかい、なら良いけど。姫様は濃い味がお好きでね、よく味を足してたからさ」
「お祖母ちゃんが?」
「あぁ、姫様は甘じょっぱいものが好きでね」
葛の葉は食事をとらず、お茶を飲むだけ。わたし一人で食事するのは味気無いだろうと言ってくれたが、これはこれで気まずい。手をつけていない椀を差し出してみる。
「あたしは要らないよ、もう食べなくたって生きてはいけるんだ」
「そうなの?」
「ああ。キツネは長く生きているうちに欲を色々失っていくんだよ、食欲、物欲、それから性欲もさ」
「性欲って……」
刺激的な単語に箸が止まってしまう。掴み損ねた煮物を葛の葉は見詰め、食べ物と認識出来なかったのか、視線を外す。
「そういう欲を無くしたキツネは神格化されるけど、あたしはそんなキツネに魅力は無いと思うんだ」
何処か寂しげに今度はわたしを眺める。隣に座っているのに葛の葉の胸のうちは遠く、察してはあげられない。だって、わたしにはしたい事が沢山あり、欲しい物も星の数程あるから。
心が煩悩で溢れているのも、逆に何も無いと言うのも問題だ。なんだか、葛の葉の気持ちはぽっかり穴が開いているみたい。きっと、どんな慰めや励ましも落ちていく。
「あ、甘じょっぱいと言えば、わたしの家のおいなりさんも甘じょっぱいんですよ! ママの――」
場の流れを変えたくて話題を提供したものの、イズナと同じでママの事も話してはいけなかったのだ。
配膳し終えた後は食事を見守るのだろう。数匹が入口付近で座っているが、ママの話題に耳が動く。すると葛の葉が笑い出す。
「あははは! 話を聞いていたら、マユ様が作るおいなりさんなら食べたくなってきた」
「え?」
「どうだい? あたしに作ってくれないかい? 後、カラクリに夢中で飯を食い忘れる玄武の坊っちゃんや、酔っぱらいのお園の分も」
提案にキツネ等が飛び上がる。すぐさま、わたしに料理をさせて死なれたら困るなどと葛の葉に撤回を求めた。わたしが玄武に毒でも盛ると思ったんだろう。
「料理中に怪我をされ、死なれたら困るのです!」
――あぁ。どうやら、違うらしい。
「あの、おいなりさんなら、怪我なんかしないで作れますけど……」
料理が全く出来ないと思われるのも癪で、割って入る。
「ほらほら、マユ様も言ってるし。大体、玄武の坊っちゃんに飯を食わせたいなら、マユ様に任せればいいんだよ! マユ様なら口移ししたって食べさせてくれるさ。ねぇ、マユ様?」
「は?」
妙な展開になってきた。しかしキツネ等は納得出来たようで、おいなりさんの材料ならあると告げてくる。深々と頭を下げられた。
「い、いや、ちょっと待って下さい! 作るのはいいんですが、先に訂正を――」
「助かります、マユ様! 玄武様はカラクリ製作中は、お食事を受け付けてくれなくて困っていたのです」
自分の食事もままならないのに、部屋から連れ出されてしまう。残った葛の葉はお茶を飲んでいおり、障子が閉められるまでこちらを見ようとしなかった。
□
おいなりさんはいつも通り、出来た。味見もし、悪くない。キツネの里と人の世界に食材の違いは無いみたい。米、たまごや人参、玉葱なども共通だ。
一方、料理器具は異なる。ガスや電気は通っておらず、釜戸を使用する。釜戸なんて映像でしか見た事しかなく、作業の中で米を炊くのが一番大変だった。
やっぱりキツネの里は昔話に出てくる暮らしをしている。だから、道具の扱い難さを好奇心がフォローしてしまうんだ。火を起こし、煙にむせる。手が悴む冷たい水で材料を洗う。大きな包丁を握るなど、まるで体験学習をしているようで、重い気持ちを一時忘れさせてくれた。
おいなりさん作りを手伝ってくれたキツネ等にお礼を言う。必要最低限の言葉しか交わせなかったが、おいなりさんをおいしいと言ってくれたのは嘘じゃないと思える。
お園の様子が気になるし、葛の葉にも言いたい事もある。でも、食べて貰う順番は決められていた。とりあえず、玄武の所に向かう。
手入れの行き届いた庭を横目に重い扉を目指す。あんな事をされた空間に自ら向かうのは抵抗感がある、あるけど行かなきゃいけないんだ。
扉には貼り紙がしてあり、玄武の字が意外と上手だと知る――読めないけど。
歪みの無い、整った文字へノックする。
「玄武様、マユです。お食事を持ってきました」
返事はない。次は強めに叩く。触れる感じから扉は結構厚そうで、声のボリュームも上げる。
「玄武様! マユですけど、開けてくれませんか?」
お盆にはおいなりさんだけでなく、お茶や味噌汁も乗せてあった。盆を一度床に置くのも面倒。わたしは周囲を伺い、誰も居ないのを確認してから足を上げる。そっと開けたら、邪魔にならないよう差し入れをしよう。
室内から赤い光と金属音が漏れてくる。玄武の背中も見えてきた。
「ここに置いておきますね、気が向いたら食べて下さい」
しゃがんで小さく伝える。
「マユユ、足で開けるの上手だね」
「……え?」
「食べさせて」
「は?」
「今、手が離せないから」
玄武に振り向かないで言われ、中腰で固まるわたし。嫌な緊張が背中を伝う。
「いいから早く、それ持ってきて」
苛立ちを隠さない声音に従う。床には部品類が転がっており、注意しなきゃいけない。けれど慎重に進もうとしている矢先、バランスを崩されてしまう。何かに裾を引っ張られたのだ。
「危ない! マユユ!」
お盆が引っくり返る様がスローモーションとなり、わたしは玄武の胸元へ落ちていく。前髪を結った玄武としっかり目が合う。
「あ、あー!」
情けない声と共に椀がびちゃ、と虚しい水音を立てる。
「マユユ? 大丈夫?」
「す、すいません!」
謝ろうと体勢を正そうとしたら、玄武の顎を頭突きしてしまった。玄武は痛みで仰け反る。
「あひゃひゃひゃ」
そんな玄武を笑う声が響いてきた。
「あ、あなた誰?」
足袋の近くで蠢く物体。わたしはすぐさま距離を取り、玄武がわたしを抱え直す。
「あれ、マユユ弐号」
この部屋は玄武の寝所から近い場所と聞く。まぁ、実際はカラクリ製作に夢中の玄武は寝所へ寄り付かないらしいけれど。ただ事実はどうあれ、鎧を着たキツネ達を始め、屋敷全体がわたしの扱いを変えた。
椀を並べるキツネの手が緊張で震えている。たぶん、その緊張はわたしに対してじゃない。玄武の所有物である、わたしへだ。
どんなに丁寧な対応をされても、内心は違うんじゃないかって疑うわたしには、煮物の味が薄く感じられた。決して不味い訳じゃなく、口に合わない。
葛の葉が首を傾げる。
「お口に合わなかったかい?」
質問に周囲の空気が強張る。もし、不味いなどと返せば、煮物を作ったキツネが罰せられるような雰囲気。慌ててかぶりを振る。
「い、いえ。とても美味しいです」
「そうかい、なら良いけど。姫様は濃い味がお好きでね、よく味を足してたからさ」
「お祖母ちゃんが?」
「あぁ、姫様は甘じょっぱいものが好きでね」
葛の葉は食事をとらず、お茶を飲むだけ。わたし一人で食事するのは味気無いだろうと言ってくれたが、これはこれで気まずい。手をつけていない椀を差し出してみる。
「あたしは要らないよ、もう食べなくたって生きてはいけるんだ」
「そうなの?」
「ああ。キツネは長く生きているうちに欲を色々失っていくんだよ、食欲、物欲、それから性欲もさ」
「性欲って……」
刺激的な単語に箸が止まってしまう。掴み損ねた煮物を葛の葉は見詰め、食べ物と認識出来なかったのか、視線を外す。
「そういう欲を無くしたキツネは神格化されるけど、あたしはそんなキツネに魅力は無いと思うんだ」
何処か寂しげに今度はわたしを眺める。隣に座っているのに葛の葉の胸のうちは遠く、察してはあげられない。だって、わたしにはしたい事が沢山あり、欲しい物も星の数程あるから。
心が煩悩で溢れているのも、逆に何も無いと言うのも問題だ。なんだか、葛の葉の気持ちはぽっかり穴が開いているみたい。きっと、どんな慰めや励ましも落ちていく。
「あ、甘じょっぱいと言えば、わたしの家のおいなりさんも甘じょっぱいんですよ! ママの――」
場の流れを変えたくて話題を提供したものの、イズナと同じでママの事も話してはいけなかったのだ。
配膳し終えた後は食事を見守るのだろう。数匹が入口付近で座っているが、ママの話題に耳が動く。すると葛の葉が笑い出す。
「あははは! 話を聞いていたら、マユ様が作るおいなりさんなら食べたくなってきた」
「え?」
「どうだい? あたしに作ってくれないかい? 後、カラクリに夢中で飯を食い忘れる玄武の坊っちゃんや、酔っぱらいのお園の分も」
提案にキツネ等が飛び上がる。すぐさま、わたしに料理をさせて死なれたら困るなどと葛の葉に撤回を求めた。わたしが玄武に毒でも盛ると思ったんだろう。
「料理中に怪我をされ、死なれたら困るのです!」
――あぁ。どうやら、違うらしい。
「あの、おいなりさんなら、怪我なんかしないで作れますけど……」
料理が全く出来ないと思われるのも癪で、割って入る。
「ほらほら、マユ様も言ってるし。大体、玄武の坊っちゃんに飯を食わせたいなら、マユ様に任せればいいんだよ! マユ様なら口移ししたって食べさせてくれるさ。ねぇ、マユ様?」
「は?」
妙な展開になってきた。しかしキツネ等は納得出来たようで、おいなりさんの材料ならあると告げてくる。深々と頭を下げられた。
「い、いや、ちょっと待って下さい! 作るのはいいんですが、先に訂正を――」
「助かります、マユ様! 玄武様はカラクリ製作中は、お食事を受け付けてくれなくて困っていたのです」
自分の食事もままならないのに、部屋から連れ出されてしまう。残った葛の葉はお茶を飲んでいおり、障子が閉められるまでこちらを見ようとしなかった。
□
おいなりさんはいつも通り、出来た。味見もし、悪くない。キツネの里と人の世界に食材の違いは無いみたい。米、たまごや人参、玉葱なども共通だ。
一方、料理器具は異なる。ガスや電気は通っておらず、釜戸を使用する。釜戸なんて映像でしか見た事しかなく、作業の中で米を炊くのが一番大変だった。
やっぱりキツネの里は昔話に出てくる暮らしをしている。だから、道具の扱い難さを好奇心がフォローしてしまうんだ。火を起こし、煙にむせる。手が悴む冷たい水で材料を洗う。大きな包丁を握るなど、まるで体験学習をしているようで、重い気持ちを一時忘れさせてくれた。
おいなりさん作りを手伝ってくれたキツネ等にお礼を言う。必要最低限の言葉しか交わせなかったが、おいなりさんをおいしいと言ってくれたのは嘘じゃないと思える。
お園の様子が気になるし、葛の葉にも言いたい事もある。でも、食べて貰う順番は決められていた。とりあえず、玄武の所に向かう。
手入れの行き届いた庭を横目に重い扉を目指す。あんな事をされた空間に自ら向かうのは抵抗感がある、あるけど行かなきゃいけないんだ。
扉には貼り紙がしてあり、玄武の字が意外と上手だと知る――読めないけど。
歪みの無い、整った文字へノックする。
「玄武様、マユです。お食事を持ってきました」
返事はない。次は強めに叩く。触れる感じから扉は結構厚そうで、声のボリュームも上げる。
「玄武様! マユですけど、開けてくれませんか?」
お盆にはおいなりさんだけでなく、お茶や味噌汁も乗せてあった。盆を一度床に置くのも面倒。わたしは周囲を伺い、誰も居ないのを確認してから足を上げる。そっと開けたら、邪魔にならないよう差し入れをしよう。
室内から赤い光と金属音が漏れてくる。玄武の背中も見えてきた。
「ここに置いておきますね、気が向いたら食べて下さい」
しゃがんで小さく伝える。
「マユユ、足で開けるの上手だね」
「……え?」
「食べさせて」
「は?」
「今、手が離せないから」
玄武に振り向かないで言われ、中腰で固まるわたし。嫌な緊張が背中を伝う。
「いいから早く、それ持ってきて」
苛立ちを隠さない声音に従う。床には部品類が転がっており、注意しなきゃいけない。けれど慎重に進もうとしている矢先、バランスを崩されてしまう。何かに裾を引っ張られたのだ。
「危ない! マユユ!」
お盆が引っくり返る様がスローモーションとなり、わたしは玄武の胸元へ落ちていく。前髪を結った玄武としっかり目が合う。
「あ、あー!」
情けない声と共に椀がびちゃ、と虚しい水音を立てる。
「マユユ? 大丈夫?」
「す、すいません!」
謝ろうと体勢を正そうとしたら、玄武の顎を頭突きしてしまった。玄武は痛みで仰け反る。
「あひゃひゃひゃ」
そんな玄武を笑う声が響いてきた。
「あ、あなた誰?」
足袋の近くで蠢く物体。わたしはすぐさま距離を取り、玄武がわたしを抱え直す。
「あれ、マユユ弐号」