マユツバ

 ちょっとした刺激で涙が零れてしまいそう。わたしは穴の空いたテーブルを見詰める。

「マユ、顔をお上げ? なにもそんな悲しむ事じゃないんだ」
「世代交代なんてしないで」
「マユ」

 お祖母ちゃんの困った顔が、穴に張ったミントティーへ映された。

「私も世代交代は時期尚早と思われます。確かに姫様の妖力に衰えはあるやもしれませんが、白虎様を始めとした四方には九尾のキツネが務まるとは思えません」
「おいおいおい、言ってくれるね 青キツネさん」

 イズナの挑発に釣り上げられる白虎。釣り人は眼鏡の縁を触る。

「その呼び名は好きではありません。どうか、イズナ、とお呼びください」
「ふーん。イズナねぇー。じゃあ、俺も伏見でいい。俺は白虎だから長になるんじゃなくて、俺だからなれるんだ。そうだろう? 姫様」

 白い尾を乱暴に振ってテーブルの上を掃いてくれた。と、お祖母ちゃんはわたしの前髪を舞わす位の息をつく。
 ミントの香りがし、わたしは顔を上げる。お祖母ちゃんはイズナにわたし分だけ、お茶を用意させた。

「白虎――いや伏見、ワシは後継にはマユを指名しようと思っている。この考えは前から話しているし、変わる事も無い」
「正気か? 半妖なんかを長にしたら他から舐められるだけだ! いや、舐められるだけならいい。キツネの誇りってやつが無くなっちまうじゃないか?」

 ある一定からお祖母ちゃんに近寄れない白虎。見えない壁みたいなものが存在しているらしく、白虎はそれを殴り付けた。鈍い音と共に血が、赤い血が流れてくる。

 わたしは咄嗟にポケットを握り、ハンカチを取り出す。どうせ無視されるのだから、顔を見ないで伝える。

「これ――使って下さい。白虎様」
「あ?」
「血が出てるから」

 受け取って貰えるとは思ってない。だから、テーブルの上に置く。

「マユ様、貴女は伏見様を様付けする必要など無いです」

 ハンカチと新しいカップを握らされる。

「でも白虎様はキツネの里の西を護るキツネでしょう?」
「えぇ。しかし、九尾のキツネの血を引く貴女は一族のナンバー2に値しますので」

 さも当たり前と言い切るイズナに、わたしは返す言葉が見付けられなくて、ミントティーを一口。
 不穏な空気と一緒に飲み込んだ為、ごっくん、大きく喉が鳴る。

「お前、マユだっけ?」

 初めて名を呼ばれて戸惑う顎を、白虎が持ち上げた。至近距離の彼は自信で満ち、わたしをたちまち不安で一杯にさせた。

「お前にはさ、誇りは無いのか? 半妖、半妖ってバカにされて悔しくねぇの?」

 灰色の瞳がナイフみたいに尖る。瞬きする度、ちくちく刻まれた。

「怪我をしている相手にハンカチを差し出すのは正しい事だから」
「は! 媚びたってムダだからな。俺が長になったら、先代の九尾の血は根絶やしにする。それでも同じ事言えるか?」
「え……」
「あー、でもお前の母親は一度楽しませて貰おうか」 

 何でも噛み砕いてしまえそうな八重歯を覗かせて笑う。白虎の笑い声はわたしを震わせ、ついに涙が落ちた。白虎の放った汚い言葉が身体中を巡り、熱くさせる。

「おい伏見、命が欲しいならマユから手を離せ」

 白虎の首元に銀色の炎が巻き付く。すぐさま白虎は降参と、両手と尾を上げる。

「おー怖い。目の黒いうちはってやつ? だったらその過保護を自分の娘の時にすれば良かったんだよ。そうしたら、花嫁不足に悩む事なんか無かったのに」

 わたしを突き飛ばし、自分の手に付いた涙をペロリと舐めた。味を確かめる舌の動きが怖くなり、イズナに助けを求める。

「イズ――」

 でも、イズナはわたしを見ていない。

「伏見様、あの方を想像の中であっても汚す真似をしないで頂きたい。それにマユ様を半妖と蔑むのもお止め下さい。そもそも四方のキツネ様とて、聖獣と姫様との授かり者じゃないですか」
「――それは白虎の血を引くキツネと、人間の血を引くキツネが同等だって言いたいのか?」
「もうよい、やめろ」

 お祖母ちゃんが文字通り、掴み合う二人へ割って入った。イズナは片足をつき服従を示し、促されて白虎も倣った。
 この光景にわたしはキツネの里に伝わる童歌を思い出す。ママは毬を付きながら歌ってくれた、あの歌だ。

 九尾のキツネには膝まずく男共が良く似合う。
 男達はみんな着物の裾でもいいから口付けしたくて、九尾に乞う。
 けれど九尾はつれなくて。
 赤い着物は情炎。どうせ焼かれるなら狂おしく。


 ママはこの歌をどんな気持ちで歌っていたんだろう。悪い女の歌よ、なんて言った事もあったけれど、本当ならママが九尾のキツネになるはずだった。
 
「マユ」

 お祖母ちゃんが頭を撫でてくる。

「キツネの里に行ってみないか? お前の母さんが育った環境を見てみるのも悪くないじゃろ?」
「里は遠いの? すぐ帰って来られる?」
「あぁ、勿論だとも」

 小さな子を言い聞かせる風に、お祖母ちゃんは椅子に座るわたしと目線を合わせて語る。

 わたしが17才の掟を知っているのは、お祖母ちゃんやイズナに内緒にしなければならない。ママはわたしに自分と同じ様、自分が望んだ相手と一緒になって貰いたいと言ったから。掟を知っているのがバレたら、ママと同じ道を辿らせない為、恋をする時間を取り上げられちゃうかもしれないって。

 きっと、お祖母ちゃんならわたしが不幸にならない相手を選んでくれるんだろう。でもそれじゃ、不幸にならないだけで幸せなのかは分からない。本当の恋と言えない気がするんだ。

 ただ、後継者問題も無視できない。
 白虎に言われなくても、わたしは九尾のキツネになれないと分かっている。けど、お祖母ちゃんの期待を何もやってみないで裏切ってしまうのは心苦しい。

 信じたくないけど、本当にお祖母ちゃんの妖力は弱まっていて、居なくなっちゃうかもしれないとしたら、あの時こうすれば良かったとか、そういう後悔だけはしたくない。

 ママの事、半妖に生まれついたわたしの事でお祖母ちゃんは、心を幾度と痛めてきたと思う。
 わたしはさっきとは違うポケットを握る。ママから教わった良い女の習慣のひとつはハンカチを二つ持っている事。
 涙を拭い、わたしはお祖母ちゃんに頷いた。
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