マユツバ
3
家の前でパパが素振りをしていた。そう言えば日曜にコンペがあるって言っていた。
わたしがとぼとぼ自転車を押しているのに気付き、パパは駆け寄ってくる。
「どうした? パンクでもしたか?」
タイヤチェックをすぐさま開始し、異常がない事がパパを不安にさせてしまう。
「ちょっと歩きたかっただけ。お昼、食べ過ぎちゃったし。ダイエットだよ」
「……マユ、何かあったのか?」
「え? やだなぁ、何にもないよ」
心配をすり抜け、車庫に向かう。
「あれ、ママは?」
派手なスポーツカーが見当たらない。
「あぁ! なんでも学生時代のお友達が急にこっちに来たそうで、食事に出掛けたよ。今夜はパパとマユの二人だ。何が食べたい?」
ドライバーを包丁に見立てるパパ。パパは洋食屋さんでアルバイトしていた経験があって、実はママより料理が得意なんだ。
パパが得意とするメニューを浮かべ、それだけで胸焼けしそう。食欲なんか無い。
「そっか、出掛けちゃったのか。話したい事があったんだけどな」
「話したい事? パパで良かったら聞くぞ?」
「ありがとう。でも、大丈夫。あ、パパ! わたし、パパのオムライスが食べたいな!」
そう言って、パパの腕にしがみつく。パパはママがキツネでわたしが半妖だって知らないし、今後教えるつもりも無い。
ママはわたしにだって正体を告げる気はなかったそうだ。
「よし! マユの為に張り切って作るぞ!」
そんなママに学生時代の友達なんて居るはずない。だって17才の掟が嫌で逃げ出すまで、ママはキツネの里で暮らしていたはずだ。
腕捲りしながらキッチンに向かうパパの後を付いていく振りし、影を踵でつつく。
「イズナ、居るんでしょう?」
パパの気配が完全に無くなるのを待ち、影からイズナが出てきた。
「ママはどうしたの?」
「存じ上げません」
「嘘! 絶対知ってる! あと何でこんなもんを高田くんに投げ付けるのよ!」
カゴの中の毬を投げ付けてやる。が、イズナは避け、飄々と尾で拾う。
「マユ様、これは?」
「毬」
「そうではなくて! これを何処で?」
「何処でって、とぼける気? 森の方から投げたんでしょ! 全くたり所が悪かったらどうするのよ!」
毬を取り上げ、今度は避けられないよう狙いを定めた。
「――鴉か」
と、振り被った腕を掴まれる。
「は?」
「いけない、あの方は鴉に!」
「イズナ?」
「マユ様、状況が変わりました。今すぐキツネの里にいらして下さい」
「え、え? ちょっと!」
イズナは手により力を込め、もう片方で狐火を呼び起こす。足元からひんやりした風が起こり、見るとコンクリート上に青い六芒星が浮かび上がっていた。
六芒星はわたしには馴染みのある図形。困った事があったら心の中で描いてみなさいって、小さい頃に教わった。で、教わった通り、困った時に何度か描いてみたものの効果はなくて。
「――マユ様。私は里の中ではお役に立てない事が多いでしょう。どうか、これを」
イズナはわたしに握らす。瞬間、何を握らされたか確認できないくらい狐火は眩しくなり、とにかくそれを受け取った。
□
九尾のキツネには膝まずく男が良く似合う。
男達はみんな着物の裾でもいいから口付けしたくて 、九尾に乞う。
けれど九尾はつれなくて。
赤い着物は情炎。どうせ焼かれるなら狂おしく。
――歌が聞こえる。後、しゃんしゃんしゃんと鈴の入った毬の音も。懐かしい感覚に頬を叩かれ、目を開けると青空に迎え入れられる。
「やっとお目覚めですか」
耳元で砂を踏まれ、自分が横たわっているのに気付く。慌てて起き上がると立ち眩みに襲われ、よろけるわたしを声の主が鼻で笑う。
「可哀想に。酔ってしまったんですね、キツネの姫」
髪を撫でられ、我に返る。真っ黒な衣装に身を包んだ男が、わたしを値踏みしていたのだ。真っ黒は目の動きを引き立て、彼がわたしに対し良くない感情を抱いているのは明確。
そっと距離を取ったつもりが、音を立ててしまった。
「そう、怯えないで下さい。まず、簪を拾われたらどうですか?」
「簪?」
男は顎で踏んでいる物の救出を促す。わたしは男に目線を置いたまま、それを寄せた。
「だから、身構えないで下さい」
「あなた誰?」
「そうですねぇ、名乗り合う前に貴女の身形を整えるのが先ですね。せめて、その簪が似合う着物を用意させて下さい」
「服装なんてどうだっていい! あなたは誰って聞いてるの!」
どうも男に触れられたくない。伸ばしてくる手を避ける。わたしを捉え損ねた指は、目の前でゆっくり折り畳まれ拳になった。
「おかしいですね。手負いの山猫を招いたつもりはないんですが」
参った、と両手を上げた男は闇夜みたい。吸い込まれそうに深い色がわたしを動けなくさせる。
「これでは主人に捧げる前に、綺麗にしとかなければいけませんね」
言い難い圧迫感に押され、尻餅をつく。でも、目だけは反らさない。
「あぁ、その目。気の強い女は大嫌いです」
忌々しい。黒い指先が呟き、喉に絡む。わたしは咄嗟に簪を翳す。
「大嫌いで結構。わたしもあなたなんか大嫌い!」
「それはそうでしょう。キツネと鴉は相対する者。仲良くお手てなんて繋ぎませんよ」
「鴉?」
イズナの顔が過る。一体、わたしは何処に来てしまったんだろう。
「イズナ?」
影を叩こうとし、影が無いのに驚く。空を見上げると太陽が居ない。
「――ここは?」
わたしの呟きに男は微笑んで、答えた。
「鴉の街ですよ、キツネの姫」
わたしがとぼとぼ自転車を押しているのに気付き、パパは駆け寄ってくる。
「どうした? パンクでもしたか?」
タイヤチェックをすぐさま開始し、異常がない事がパパを不安にさせてしまう。
「ちょっと歩きたかっただけ。お昼、食べ過ぎちゃったし。ダイエットだよ」
「……マユ、何かあったのか?」
「え? やだなぁ、何にもないよ」
心配をすり抜け、車庫に向かう。
「あれ、ママは?」
派手なスポーツカーが見当たらない。
「あぁ! なんでも学生時代のお友達が急にこっちに来たそうで、食事に出掛けたよ。今夜はパパとマユの二人だ。何が食べたい?」
ドライバーを包丁に見立てるパパ。パパは洋食屋さんでアルバイトしていた経験があって、実はママより料理が得意なんだ。
パパが得意とするメニューを浮かべ、それだけで胸焼けしそう。食欲なんか無い。
「そっか、出掛けちゃったのか。話したい事があったんだけどな」
「話したい事? パパで良かったら聞くぞ?」
「ありがとう。でも、大丈夫。あ、パパ! わたし、パパのオムライスが食べたいな!」
そう言って、パパの腕にしがみつく。パパはママがキツネでわたしが半妖だって知らないし、今後教えるつもりも無い。
ママはわたしにだって正体を告げる気はなかったそうだ。
「よし! マユの為に張り切って作るぞ!」
そんなママに学生時代の友達なんて居るはずない。だって17才の掟が嫌で逃げ出すまで、ママはキツネの里で暮らしていたはずだ。
腕捲りしながらキッチンに向かうパパの後を付いていく振りし、影を踵でつつく。
「イズナ、居るんでしょう?」
パパの気配が完全に無くなるのを待ち、影からイズナが出てきた。
「ママはどうしたの?」
「存じ上げません」
「嘘! 絶対知ってる! あと何でこんなもんを高田くんに投げ付けるのよ!」
カゴの中の毬を投げ付けてやる。が、イズナは避け、飄々と尾で拾う。
「マユ様、これは?」
「毬」
「そうではなくて! これを何処で?」
「何処でって、とぼける気? 森の方から投げたんでしょ! 全くたり所が悪かったらどうするのよ!」
毬を取り上げ、今度は避けられないよう狙いを定めた。
「――鴉か」
と、振り被った腕を掴まれる。
「は?」
「いけない、あの方は鴉に!」
「イズナ?」
「マユ様、状況が変わりました。今すぐキツネの里にいらして下さい」
「え、え? ちょっと!」
イズナは手により力を込め、もう片方で狐火を呼び起こす。足元からひんやりした風が起こり、見るとコンクリート上に青い六芒星が浮かび上がっていた。
六芒星はわたしには馴染みのある図形。困った事があったら心の中で描いてみなさいって、小さい頃に教わった。で、教わった通り、困った時に何度か描いてみたものの効果はなくて。
「――マユ様。私は里の中ではお役に立てない事が多いでしょう。どうか、これを」
イズナはわたしに握らす。瞬間、何を握らされたか確認できないくらい狐火は眩しくなり、とにかくそれを受け取った。
□
九尾のキツネには膝まずく男が良く似合う。
男達はみんな着物の裾でもいいから口付けしたくて 、九尾に乞う。
けれど九尾はつれなくて。
赤い着物は情炎。どうせ焼かれるなら狂おしく。
――歌が聞こえる。後、しゃんしゃんしゃんと鈴の入った毬の音も。懐かしい感覚に頬を叩かれ、目を開けると青空に迎え入れられる。
「やっとお目覚めですか」
耳元で砂を踏まれ、自分が横たわっているのに気付く。慌てて起き上がると立ち眩みに襲われ、よろけるわたしを声の主が鼻で笑う。
「可哀想に。酔ってしまったんですね、キツネの姫」
髪を撫でられ、我に返る。真っ黒な衣装に身を包んだ男が、わたしを値踏みしていたのだ。真っ黒は目の動きを引き立て、彼がわたしに対し良くない感情を抱いているのは明確。
そっと距離を取ったつもりが、音を立ててしまった。
「そう、怯えないで下さい。まず、簪を拾われたらどうですか?」
「簪?」
男は顎で踏んでいる物の救出を促す。わたしは男に目線を置いたまま、それを寄せた。
「だから、身構えないで下さい」
「あなた誰?」
「そうですねぇ、名乗り合う前に貴女の身形を整えるのが先ですね。せめて、その簪が似合う着物を用意させて下さい」
「服装なんてどうだっていい! あなたは誰って聞いてるの!」
どうも男に触れられたくない。伸ばしてくる手を避ける。わたしを捉え損ねた指は、目の前でゆっくり折り畳まれ拳になった。
「おかしいですね。手負いの山猫を招いたつもりはないんですが」
参った、と両手を上げた男は闇夜みたい。吸い込まれそうに深い色がわたしを動けなくさせる。
「これでは主人に捧げる前に、綺麗にしとかなければいけませんね」
言い難い圧迫感に押され、尻餅をつく。でも、目だけは反らさない。
「あぁ、その目。気の強い女は大嫌いです」
忌々しい。黒い指先が呟き、喉に絡む。わたしは咄嗟に簪を翳す。
「大嫌いで結構。わたしもあなたなんか大嫌い!」
「それはそうでしょう。キツネと鴉は相対する者。仲良くお手てなんて繋ぎませんよ」
「鴉?」
イズナの顔が過る。一体、わたしは何処に来てしまったんだろう。
「イズナ?」
影を叩こうとし、影が無いのに驚く。空を見上げると太陽が居ない。
「――ここは?」
わたしの呟きに男は微笑んで、答えた。
「鴉の街ですよ、キツネの姫」