【B】星のない夜 ~戻らない恋~
「君はもう咲空良なんだ。
彼女に相応しくない行動は慎みなさい。
咲空良、もう休め。
俺は仕事に戻る」
「何?
逃げるの?私は当然のことをしているだけよ。
貴方は私と体を重ねた。
自覚はあるでしょ?あの瞬間、貴方は貴方の意志で私を抱いてた。
この子は貴方と葵桜秋である私の赤ちゃんよ。
なのに……葵桜秋の名を捨てて、咲空良としてこの家に嫁いだのは
貴方のこの家を守るためでしょ?」
結婚式の終わった夜から、ヒステリックに騒ぐ彼女を振り返ると
「お腹の子に触る。
君はそのまま眠りなさい」
っと言葉を残して部屋を後にした。
正直、双子の正体が明らかになって、彼女の輿入れが決定した日から
俺は自分自身がわからない。
咲空良の臆病に対して怒りに震えるのか、
葵桜秋のずる賢さと欲深さに怒りを覚えるのか、
俺自身の浅はかさに対して、怒りを感じるのか……。
どれだけ後悔を重ねても、全ての過去で現在ではない。
咲空良と出逢って、ようやく帰れる場所となりかけていた
その場所が……また帰れない場所へと形を変えていく。
ホテルを後にして、そのまま睦樹の書斎であるマンションの鍵を開けると
そこにはテーブルに置かれたお弁当。
*
怜皇へ
どうせ帰ってきてるんだろう。
晩御飯、出来あいだがないよりはマシだろ。
咲空良ちゃんは自宅まで送り届けてきたよ。
睦樹
*
メモを読んでパックの蓋を開けると、
いい香りが鼻腔をくすぐる。
そして豪快にお腹はグーと音を立てた。
……腹減ってたんだな……。
割り箸を割ってテーブル前の椅子に座ると、
ゆっくりと箸を動かしていく。
一口、料理を口に運んですぐにわかった。
その弁当が決して、出来合いなんかじゃなくて
咲空良さんが作ったお弁当なのだと……。
廣瀬家でしか味わったことのない彼女の決して飾ることのない
素朴な家庭の味。
俺が母のいるpriere de l'ange(プリエールデランジュ)に顔を出したときにしか
味わうことが出来なかった、おふくろの味に似た料理が詰められていた。
そんな咲空良の味付けが俺を包み込むと、何故だか……失った存在の大きさに涙が零れた。
翌日からも邸に帰ることは意図的にせずに、
このマンションを拠点に次から次へとがむしゃらに仕事を詰め込んだ。
咲空良として邸で過ごし続ける、妹からは苦情にも似た電話が毎日毎日一日に何本も入ってくる。
最初は聞いていた留守番電話すら、一週間も過ぎれば聞く気も失せる。