失意のキャット
あたしが夜の闇より深い闇に落ちるまで
ファリカは、準備運動なしでの全力疾走の報いに、建物の陰に蹲ると小さな音を立てて咳をしていた。右腕をまるで噛み締めるように口元に押し付けると、安物のコートで口周りが覆われ、咳の音が余り響かなくなる。
そんな事を覚えたのはここ一週間、毎日路上に立つようになってからである。
コートが汚れるから口紅は塗らない、それでも唇が赤いのは、恥ずかしさと情けなさと羞恥で常に唇を噛み締めているからであろう。
ファリカは一週間前まではただの小娘であった。パン屋で働いているが故に、商品として売れなくなったパンを貰う事が出来たので、働き始めてからは飢えた事がなかった。女将も大将も、本当によくしてくれた。
一週間前、ファリカはパン屋の女将に首になる事を覚悟しながら言ったのだ。
一月休みが欲しいと。
もしこのパン屋を首になったら、自分の様な私生児を雇ってくれるところはない。
そう思いながらもファリカは嘘を吐いたのである。心の中で何度も何度も詫びながら。
肺を患ったようだ、店には出られないというと、女将はその嘘を信じてファリカにへそくりの中から銀貨を一枚渡してくれさえした。
ファリカは、その事に罪悪感を覚えながらも銀貨を辞退することはしなかった。女将の性格はよく知っている。一旦出した金を引っ込める事は決してしないだろう。
それにファリカは少しでも金が欲しかった。
それ故、パン屋からも自分が住んでいた家からも遠く離れた町で身体を売るのである。
もういったかしら?
漸く咳が止まったファリカはそう思いながら周囲を見渡した。
治安維持部隊はいない。警察と民間の『良識者』達が組織した部隊は諦めて去って行ったようだった。
寒い夜だった。墨で塗りつぶしたような空に月だけが白い面で微笑んでいる。
ファリカは娼婦として二つタブーを犯している。
一つは売春を取り仕切っているギルドに金を払っていない事。
そしてもう一つは彼女が私生児であるという事だ。
娼婦になるには、両親の許しと身元引受人が必要だった。
身元引受人には誰かがなってくれるだろう。例えば今回ファリカが身を売る事になった原因である彼女の恋人などが。実際彼が身元引受人になってくれるという事で、ファリカはパン屋で働く事が出来るようになったのだ。
しかし両親と言われたら困ってしまう。
ファリカは私生児で、教会の外に捨てられていた。司祭が育ててくれたのだが一昨年、激務に身体がついて行かずに亡くなった。そんなファリカに、『両親の許しが必要だ』と言われてもどうすればいいのやら。
一つ目のタブーは何とかしようと思えば何とかなったであろう。頭を下げて金を払えばいいのだ。だが、私生児は足元を見られる。普通の娼婦の実に三倍もの金子を要求されるのだ。そんな金を払っては一か月でとても目標額までの貯金は達成出来ない。
故にファリカは、タブーを犯したまま客を取る。男達は、彼女が私生児であるかどうかとか、ギルドに金を払っているか、とかいう事は全く気にしなかった。ファリカは運が良い事に、美形だったのである。
黒曜の髪は艶やかに闇夜の中でも光を反射するかのよう。
ぬばたまの瞳は長く濃い睫毛に縁どられ頬に扇の影を落とす。強い意志を感じさせる瞳であったが見るべき者が見たなら解ってしまったであろう。ファリカが壊れかけている事を。彼女は心の底からの娼婦になるには、夢を抱きすぎていたし、恋人への愛情が、今、自分がしている行為を責め立てるのであった。
そんな、ぎりぎり崖っぷちの、意志だけでそこに存在する彼女のその唇は、紅を塗らぬのに花でも食べたかのように赤い。
白い肌は魔性の美しさ、ファリカはこの商売を始めてから幾ら寒くともコートの下には下着しか着けず、それを覗かせる事によって男達を誘惑してきた。
通りに戻らないと。こんな辺鄙な所、誰も通らないわ。少なくとも女を買おうという男は誰も。
治安維持部隊に見つかり、裁判の元磔刑を処される覚悟は、既にファリカの中にあった。
育ててくれた司祭が今の自分を見たなら涙を流すだろう事も解っている。
それでもファリカが身体を売るのは金が必要だから、自分の恋人が借金持ちである事を知ったからである。
借金持ちは、この国の法律では結婚出来ない。ファリカは彼と結婚したかったし、彼もファリカを愛していると言った。
だから彼女は言ったのだ。
一月待って。焼け石に水かもしれないけれどもそれなりのお金を用意するわ。
そんな事を覚えたのはここ一週間、毎日路上に立つようになってからである。
コートが汚れるから口紅は塗らない、それでも唇が赤いのは、恥ずかしさと情けなさと羞恥で常に唇を噛み締めているからであろう。
ファリカは一週間前まではただの小娘であった。パン屋で働いているが故に、商品として売れなくなったパンを貰う事が出来たので、働き始めてからは飢えた事がなかった。女将も大将も、本当によくしてくれた。
一週間前、ファリカはパン屋の女将に首になる事を覚悟しながら言ったのだ。
一月休みが欲しいと。
もしこのパン屋を首になったら、自分の様な私生児を雇ってくれるところはない。
そう思いながらもファリカは嘘を吐いたのである。心の中で何度も何度も詫びながら。
肺を患ったようだ、店には出られないというと、女将はその嘘を信じてファリカにへそくりの中から銀貨を一枚渡してくれさえした。
ファリカは、その事に罪悪感を覚えながらも銀貨を辞退することはしなかった。女将の性格はよく知っている。一旦出した金を引っ込める事は決してしないだろう。
それにファリカは少しでも金が欲しかった。
それ故、パン屋からも自分が住んでいた家からも遠く離れた町で身体を売るのである。
もういったかしら?
漸く咳が止まったファリカはそう思いながら周囲を見渡した。
治安維持部隊はいない。警察と民間の『良識者』達が組織した部隊は諦めて去って行ったようだった。
寒い夜だった。墨で塗りつぶしたような空に月だけが白い面で微笑んでいる。
ファリカは娼婦として二つタブーを犯している。
一つは売春を取り仕切っているギルドに金を払っていない事。
そしてもう一つは彼女が私生児であるという事だ。
娼婦になるには、両親の許しと身元引受人が必要だった。
身元引受人には誰かがなってくれるだろう。例えば今回ファリカが身を売る事になった原因である彼女の恋人などが。実際彼が身元引受人になってくれるという事で、ファリカはパン屋で働く事が出来るようになったのだ。
しかし両親と言われたら困ってしまう。
ファリカは私生児で、教会の外に捨てられていた。司祭が育ててくれたのだが一昨年、激務に身体がついて行かずに亡くなった。そんなファリカに、『両親の許しが必要だ』と言われてもどうすればいいのやら。
一つ目のタブーは何とかしようと思えば何とかなったであろう。頭を下げて金を払えばいいのだ。だが、私生児は足元を見られる。普通の娼婦の実に三倍もの金子を要求されるのだ。そんな金を払っては一か月でとても目標額までの貯金は達成出来ない。
故にファリカは、タブーを犯したまま客を取る。男達は、彼女が私生児であるかどうかとか、ギルドに金を払っているか、とかいう事は全く気にしなかった。ファリカは運が良い事に、美形だったのである。
黒曜の髪は艶やかに闇夜の中でも光を反射するかのよう。
ぬばたまの瞳は長く濃い睫毛に縁どられ頬に扇の影を落とす。強い意志を感じさせる瞳であったが見るべき者が見たなら解ってしまったであろう。ファリカが壊れかけている事を。彼女は心の底からの娼婦になるには、夢を抱きすぎていたし、恋人への愛情が、今、自分がしている行為を責め立てるのであった。
そんな、ぎりぎり崖っぷちの、意志だけでそこに存在する彼女のその唇は、紅を塗らぬのに花でも食べたかのように赤い。
白い肌は魔性の美しさ、ファリカはこの商売を始めてから幾ら寒くともコートの下には下着しか着けず、それを覗かせる事によって男達を誘惑してきた。
通りに戻らないと。こんな辺鄙な所、誰も通らないわ。少なくとも女を買おうという男は誰も。
治安維持部隊に見つかり、裁判の元磔刑を処される覚悟は、既にファリカの中にあった。
育ててくれた司祭が今の自分を見たなら涙を流すだろう事も解っている。
それでもファリカが身体を売るのは金が必要だから、自分の恋人が借金持ちである事を知ったからである。
借金持ちは、この国の法律では結婚出来ない。ファリカは彼と結婚したかったし、彼もファリカを愛していると言った。
だから彼女は言ったのだ。
一月待って。焼け石に水かもしれないけれどもそれなりのお金を用意するわ。
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