音匣マリア
瀬名さんの店を出て、自分の店に向かう車の中で、菜月に電話をかけて瀬名さんから聞いた話と俺がマンションにはしばらく戻らない事を説明した。


菜月は『瀬名さんのお願いなら断れないよね』と、納得はしたものの、やはり声には不安の要素が滲み出ている。



全く早くあの女、どうにかしてくんねーかな。瀬名さんには申し訳ないけど。




その夜は菜月はうちの店には来なくて、替わりに兄貴の笥乃さんが深夜も遅くにふらりとやって来た。


「ねー、この店ツケおっけーだよな?」

席に座って言うことがまずそれですか。


「いずれ払ってくれるんなら。菜月にツケといてってのはナシですよ」


先手を取って逃げ道を封じた。笥乃さんの集りは中井さんの店では有名な話らしいので、自衛するとこは自衛しとかないと。


「ちぇーツレねぇの。いいや、ピッチャーでビール出してよ」

「生と黒、どっちスか?」

「生で」


言われるがままにサーバーからビールを注いでカウンターに出す。昨日の残り物だが、カマンベールのフライも付けて出してやった。


「お、さんきゅー。海野くんは気が利くねぇ」

「そりゃどうも。今日はあいつ、何してました?」


さっき電話はしたけど、菜月を感じない夜がこんなに無味乾燥してて味気ないなんて。

あの女に引っ掻き回される前は、マンションに来るか店に来るかをしてたのに。


「菜月?なーんか元気なかったけど。なんかあった?最近はお前さんのマンションにも行ってないみたいじゃん?」


鋭い人だな。


「いや、別に。俺らはいつも通りですけど」


変に痛くもない腹探られて、勘繰られるのも鬱陶しい。


笥乃さんには無難な答えをしておいた。



だけど、実家に帰るって言っても、マンションに置いてる必要最低限の物は持ち出さないといけない。


今日は実家に戻って、次の休みにでもマンションには物を取りに行くか。


……うん、それしかねぇな。





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