月陰伝(一)
軽い食事の後、律をまとわりつかせながら、昨日から考えていた事をマリュヒャに話した。
「お父様…父の遺品の事なのですが…」
それは、父が大切にしていた文箱。
私にとっては父の形見であり、曾祖母の遺品でもある、黒い漆の文箱だ。
「そんな物があったな。
だがあれは…」
複雑そうな顔をした理由は分かっている。
私がいくら形見だと言ってみても、父にとっては違う。
私に預けただけの物。
「いいんです。
あれは母へ渡すべき物。
預かっていただけに過ぎないのは、分かっていましたから…」
父が私を思っていなかったわけではない。
だが、心からの愛はなかった。
他人から見れば、仲の良い父と娘。
さぞ可愛い娘を独り占めしている父に見えた事だろう。
「母に言われて気付きました。
他人にどう見えていたのか…。
母の目には、娘を独り占めして溺愛する父親の様に見えていた…。
優しくなかった訳ではありません。
確かにそこに、親の愛はありました。
ただ…それよりも強い不安や葛藤があった……」
抱き締める父の腕の中は、心休まる場所ではなかった。
何かから隠すような怯えが見えたのだ。
向けられる眼差しには、ほんの小さな優しさと、大きな不安が見てとれた。
しかし子どもの頃の私は、それを無視し続けた。
認める事が怖かったのだ。
「あの文箱を見ると…父に…私は本当は愛されていなかったのだと認めざるを得なくなる…。
私を必要としてはいなかったのだと言われているようで…でも、あれには父の想いが確かに詰まっている…」
だから無下にできなかった。
目の届く所に必ず置くようにしていた。
それを見て、傷付いたとしても…。
今も、自室の机の上に置いてある。
「母親に渡す気か?」
眉を寄せ、不愉快そうに聞いてくるマリュヒャに苦笑しながら、隣でいつの間にか船をこぎ出した律を抱えて答えた。
「父の最期の願いだと思うのです。
いつまでも私が持っていて良いわけがありません。
母との和解も叶いました。
頃合いなのでしょう…」
病院で、あの文箱を渡された時、まさか預けると言われるとは思わなかった。
遺していく娘に、何一つ渡す気はないと言う意思を感じた。
子ども心に、正直な人だと思ったものだ。
ずっと近くに居るのに、見向きもしなかった。
父は一日中、窓の外を見て、会えない人を想っていた。
「未練がましい片想いは、もうやめます。
愛されていなかったと、とうに認めていますから…」
もう、誰かにすがらなくては生きていけない子どもではない。
「黒狼」
《お呼びか、姫よ》
「届け物をお願い。
父の文箱を…母に…」
《承知した》
これで良い…。
「瑞樹を恨んでいるか…?」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「恨む……なんて…」
思い出されるのは、目を背けた父の姿。
けれど、恨んだ事はない。
「…なぜ…父は、私をこちらに連れて来たのでしょう…?」
「?月陰にか…?」
物心つく頃には、こちらに慣れていた。
気付けば、マリュヒャやシェリル、フィリアムやサミュー、多くの人に囲まれていた。
「こちらを…シェリー様達を知らなければ、私は、父の想いに気付かなかったと思うのです…」
「どう言う事だ?」
「優しさを知ること…。
愛を知ること…。
シェリー様やフィル様、他の多くの月陰の人からその想いを教えられなければ、父が私に向ける想いが、それとは違うものなのだとは気付かなかったはずです。
それが、愛ではないのだと知ることはなかった…」
愛を知らなければ、愛されていないと気付く事はなかった。
優しさを知らなければ、それが本当の想いではないと、気付く事はできなかった。
「そう言う所は…瑞樹と同じだな…」
「?……」
「じきに分かる」
そう言ったマリュヒャは、この上なく優しい笑みを浮かべていた。
「お父様…父の遺品の事なのですが…」
それは、父が大切にしていた文箱。
私にとっては父の形見であり、曾祖母の遺品でもある、黒い漆の文箱だ。
「そんな物があったな。
だがあれは…」
複雑そうな顔をした理由は分かっている。
私がいくら形見だと言ってみても、父にとっては違う。
私に預けただけの物。
「いいんです。
あれは母へ渡すべき物。
預かっていただけに過ぎないのは、分かっていましたから…」
父が私を思っていなかったわけではない。
だが、心からの愛はなかった。
他人から見れば、仲の良い父と娘。
さぞ可愛い娘を独り占めしている父に見えた事だろう。
「母に言われて気付きました。
他人にどう見えていたのか…。
母の目には、娘を独り占めして溺愛する父親の様に見えていた…。
優しくなかった訳ではありません。
確かにそこに、親の愛はありました。
ただ…それよりも強い不安や葛藤があった……」
抱き締める父の腕の中は、心休まる場所ではなかった。
何かから隠すような怯えが見えたのだ。
向けられる眼差しには、ほんの小さな優しさと、大きな不安が見てとれた。
しかし子どもの頃の私は、それを無視し続けた。
認める事が怖かったのだ。
「あの文箱を見ると…父に…私は本当は愛されていなかったのだと認めざるを得なくなる…。
私を必要としてはいなかったのだと言われているようで…でも、あれには父の想いが確かに詰まっている…」
だから無下にできなかった。
目の届く所に必ず置くようにしていた。
それを見て、傷付いたとしても…。
今も、自室の机の上に置いてある。
「母親に渡す気か?」
眉を寄せ、不愉快そうに聞いてくるマリュヒャに苦笑しながら、隣でいつの間にか船をこぎ出した律を抱えて答えた。
「父の最期の願いだと思うのです。
いつまでも私が持っていて良いわけがありません。
母との和解も叶いました。
頃合いなのでしょう…」
病院で、あの文箱を渡された時、まさか預けると言われるとは思わなかった。
遺していく娘に、何一つ渡す気はないと言う意思を感じた。
子ども心に、正直な人だと思ったものだ。
ずっと近くに居るのに、見向きもしなかった。
父は一日中、窓の外を見て、会えない人を想っていた。
「未練がましい片想いは、もうやめます。
愛されていなかったと、とうに認めていますから…」
もう、誰かにすがらなくては生きていけない子どもではない。
「黒狼」
《お呼びか、姫よ》
「届け物をお願い。
父の文箱を…母に…」
《承知した》
これで良い…。
「瑞樹を恨んでいるか…?」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「恨む……なんて…」
思い出されるのは、目を背けた父の姿。
けれど、恨んだ事はない。
「…なぜ…父は、私をこちらに連れて来たのでしょう…?」
「?月陰にか…?」
物心つく頃には、こちらに慣れていた。
気付けば、マリュヒャやシェリル、フィリアムやサミュー、多くの人に囲まれていた。
「こちらを…シェリー様達を知らなければ、私は、父の想いに気付かなかったと思うのです…」
「どう言う事だ?」
「優しさを知ること…。
愛を知ること…。
シェリー様やフィル様、他の多くの月陰の人からその想いを教えられなければ、父が私に向ける想いが、それとは違うものなのだとは気付かなかったはずです。
それが、愛ではないのだと知ることはなかった…」
愛を知らなければ、愛されていないと気付く事はなかった。
優しさを知らなければ、それが本当の想いではないと、気付く事はできなかった。
「そう言う所は…瑞樹と同じだな…」
「?……」
「じきに分かる」
そう言ったマリュヒャは、この上なく優しい笑みを浮かべていた。