月陰伝(一)
制止の声と共に、強引に体を引っ張られ、抱きすくめられた。
その腕の力と、頬に当たる胸の温かさと鼓動の音が、次第に心を落ち着けていく。

「…サキ…?」
「落ち着け、結華。
危ないだろ?」

場違いな程穏やかな口調に、フゥっと息をついた。
部屋では、壊れた水道だけが音を響かせている。

「危なかったなぁ。
流石は佐紀。
昔っから結のピンチには絶対駆けつけるのな?」
「っ…いえ…近くに居ましたので…っ」
「ん?
だってここ五階だぞ?
さっきまで下に…車にいただろ?」
「…っ…そうですが…っ。
…からかわないでくれ…っ」
「そうだな。
とりあえず、結を離してやれ。
苦しそうだぞ」
「っえっ?!
っすまないっ」
「…いいよ。
止めてくれてありがと」

佐紀と離れると、母がまた小さく呟いた。

「化け物っ」

見れば、カタカタと震えながら、こちらに嫌悪のこもった目を向けていた。

もういい。

そう思って、下に置いていた荷物に目を向け、屈んで手を伸ばすと、誰かが隣をすり抜けた。
そして、パンッと小気味良い音が部屋に響いた。

「貴様はっ、最低の人間だっ。
何も見ようとしない。
知ろうともしないっ。
自分の事にさえ目を向けようとしないっ。
結に瑞樹を取られたと思ったんだろ。
くだらん理由で結に当たるなっ。
なぜ瑞樹に問わなかったっ。
瑞樹と貴様の問題に、結を巻き込むなッ」

それは多分、私がずっと言いたかった言葉だ。
父は、力を継いでしまった私を危険だと思った。
父が母と距離を置いたのは、母に心配させない為。
早く力を使いこなせるようになって、家族に迷惑を掛けないようにする為。
異能の私と母の間に入って共存させる為なのだと言って、目を伏せたのを思い出す。
けれど、母には、父が私にばかり構う事が許せなかった。

「寂しかったのならっ寂しいと認めて伝えれば良かったのだッ。
なぜ結を気にするのか、問えば良かったのだッ。
聞き方も分からない子どもじゃないんだっ。
それくらい解れッ馬鹿者がッ」

言うだけ言って、肩で息をする煉夜に、手を伸ばす。

「落ち着いて、煉。
もう気にしてないから良いんだよ」
「っいいわけあるかッ。
私はこう言う人間が大ッ嫌いなんだッ」
「分かった分かった」

トントンと背中を叩き、外へと追い出す。
すると、風がそよいだ。

《…我が主…っ……》

耳元で囁かれた言葉に、眉を寄せた。

「…佐紀、車の鍵しなかったの?」
「ん?っあッ」
「おい……あれっ佐紀の車じゃないか?」

外に出た煉夜が、指を指しながら走っていく佐紀の車を見送った。

「っ〜…っ」
「お〜ぉどこのアンラッキー人間だ?
うちの関係者の車を盗むなんて…気の毒としか言い様がないな」
「…見送ってる場合じゃないでしょ?」
「ふぉっふぉっふぉっ、運がないですなぁ」
「…サリーさんまで…」
「心配するな。
すぐに捕まえてやる。
反省もさせねばな。
ほれ佐紀、行くぞっ。
結達は私のとこの車を呼んでやるからそれで帰れ。
じゃぁなっ」

面白いオモチャを見付けたと言うように、嬉々として去っていく煉夜と、ひきずられていく佐紀を見送り、サリファと二人、荷物を持ってもう一度母と美輝を振り返った。

「それじゃぁ、美輝、元気でね。
さようなら…母さん」

そうして、ゆっくりとドアを閉めた。


< 14 / 149 >

この作品をシェア

pagetop