月陰伝(一)
いつの間にか夕日が落ち、星空が見える。
屋敷の光が目の端に映り、もうじきこの二人の時間が終わる。
温かい手の感覚。
言葉がなくても十分だと思える時間。
それがあと少しで終わってしまう事が、寂しいと思った。
ほんの少し歩みを落とす。
握った手に気付かれないように緩く力を込める。
なぜだろう。
今までこんな風に感じた事などなかった。
もっと傍にいたいなんて思う事などなかったのに…。

「…結華」
「うん?」

呼ばれてすぐ、ぐっと引き寄せられた。
何が起きたのかと思った時には、佐紀の腕の中。
頭に吐息が触れる。
耳元で佐紀の鼓動が聞こえた。

「結華…結婚しよう…」
「……?」

今何と言った?

「結華…俺の事……嫌いか?」
「……っ」

そんな事聞くなっ!!

「結華…?」
「っ……」

ゆっくりと佐紀の背中に手を回そうと腕を上げる。
自分を落ち着けるように息を全部吐き出す。
けれど、背中に触れる寸前で手が止まってしまう。
素直に『好きだ』と言えたら楽だろう。
けれど、生憎そんなに可愛らしい性格はしていなかった。

「…っ嫌いじゃない…っ」

そうじゃないっ。
何で言えないのっ!?

「そうか」

っ『そうか』って何!?
これで納得なの!?

離れようとする気配を感じて、とっさに止まっていた手が動いた。

「っ…ッッ…結華?!」

背中にしっかりと巻き付いた腕は、少し震えている。
心臓が驚く程高鳴った。

「っ……っ…き…好き…っ…」

言えた。
恥ずかしくて涙が出る経験なんて初めてだ。
このあとどうしよう。

そっと手を離そうとすれば、今度は逆に強く抱き締められた。
こめかみの辺りに温かいものが触れる。
それが唇だと気付いてそっと顔を上げた。
そこには、泣きそうな顔があった。

「結華…っ結華…っ好きだっ…愛してる…っ」

佐紀はそう言ってゆっくりと唇を重ねた。
思考を全て奪われる。
全部が満たされていく。
徐々に深くなる口付けは、まだ足りないと言うように執拗で、余裕がなくなる。
この前のとは違う。
何の負い目もない。
本当に純粋に好きだと伝えられる。

「っ……」

唇を離し、早鐘を打つ心臓に戸惑いながら、佐紀の胸に頬を埋める。
同じ様に早く刻む心臓の音に嬉しくなる。
抱き締められた腕から、未だに頭に落とされる口付けから、想いが伝わってくる。

「…結華…結婚しよう」
「…ダメ」
「ッッ???」

ビクッといきなり現実に引き戻された様に震える佐紀に、今度はこちらから回した腕に力を込めて、改めて答える。

「先ずはお付き合いからね」
「っ…そっ…そうだった…」

うん。
きっと佐紀の事だから、そこが抜けただけだと思ったよ。


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