月陰伝(一)
ようやく仕事が終わった。
ここは、シャドーカンパニーの本社。
昨夜は、月陰の寮に泊まった為、朝早くから仕事をする事ができた。
今の時間は夕方の三時。
ケイタイで時間を確認すれば、メールが入っているのに気がついた。

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件:今日の夕食
いつ帰りますか?
今日はハンバーグにします。
帰るなら連絡ください。


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最近になって、雪仁は、何だかんだと話し掛けてくるようになった。
少し前まで、こちらから話し掛けても『うん』くらいしか言わなかったのにだ。
それがいきなり、『刹那兄さん、お弁当を作ってみました』とか言われて、驚いた。
『刹那兄さん』なんて呼ばれたのは、小学校の時以来だ。
どうかしたのかと心配してやれば、『兄さんの事を誤解していました』とか、ちょっと照れた可愛い顔で言われてしまった。

この場合、『そうか』としか言えないじゃないかっ。

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件:
今から帰る。

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これが精一杯だ。
素っ気ないかもしれないが、仕方がない。

この前、ついうっかり煉夜の前でメールを開いてしまったら、笑われたのだ。

『雪って弟だよな?
それとも、彼女か?
仲がおよろしい事でっ…っ』

っ俺も思ったさっ。
むしろ、アドレスを知っていた事にビックリだっ。

それほど冷えきった仲だったのに、頻繁に来るようになったメールは、彼女かそうでなければ、息子に構いたい母親の様なのだ。
その上、かなりマメに送ってくる。
”今日は帰るのか”に始まり、”ご飯はどうしますか”から、”早く帰って来てください”とかまで…。

無下になんて出来ない…。

更に、メールを返すのをうっかり忘れていると、”ちゃんと寝てください”とか、”ご飯は食べましたか?”とかを夜に改めて送ってくる。

ウザいわけじゃないんだ。
ただ、今までが今までなだけに、どう対応したら良いのかがわからないんだ。

「刹那、今帰りか?」
「佐紀さんっ」

社を出ようとした所で、佐紀と出くわした。

「あっ、結との婚約、おめでとうございますっ」
「ありがとう。
……悪いな」
「……何がです……?」
「お前、結の事…好きだったんだろ?」
「っ……」

やっぱりバレてたのか…。

バレていたなら、もう取り繕う必要はない。
佐紀に会ったら、言おうと思っていたのだ。

「確かにそうでしたが、今は違います」

好きだった。
結の事を知れば知るほど。
傍に居れば居るほど。
俺の中で特別になっていった。
けれど……っ。

「結は、ずっと特別です。
けど、それは恋じゃないと気付きました」

そう、これは恋ではない。
ずっと傍に居たくて、少しでも近付きたいと思う。
その想いは、駆け引きで成り立つ恋ではなく、無償で捧げる愛でもない。

「すみません、佐紀さん。
俺は……欲張りなんです。
結とは、恋人ではなく、信頼で結ばれた上司と部下でありたい。
勿論、佐紀さん……あなたとも」


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