トイレの神様‐いいえ、ただの野次馬です‐
浪瀬が離れたのを感じると、すぐさま唾を吐き捨て、手の甲で唇を拭った。
流石は場慣れしている浪瀬。
いつもと変わらないのが腹立つ。
つか、満足そうにニコニコしやがって。
「ぺっ…………どこが魔法なのかしら?」
「こっち見る奴いなくなっただろ?」
確かに、浪瀬の視線の先に、居たはずの目撃者は立ち去っていた。
他の生徒もこちらを気にせず過ぎて行く。
「気まずくて逃げたんでしょうよ。人によってはガン見にくわえて写真撮影ものよ。私もカメラの連写機能作動させて………違う、そうじゃない……」
どこから言えばいいのでしょうか。
でも今は、苦情より先に。
私の視線の先遠く。
ひと組の男女、羽鳥空と花垣星奈が仲睦まじく歩いていた。
「あああああ、見逃したぁ!」
地面に拳を打ち付けて、全力で嘆いた。
標的の邂逅が。
私の仕事の成果が……。
「報酬は上乗せしとくぜ」
「貴様に支払う報酬など無いわ」
私のこの嘆きようを見て、よくもぬけぬけと報酬もらえると思いましたねぇ。
「話が違うな。職員室潜入の手引きと、手紙の入手。誰がやったと思ってんだ?」
「さっきの粘膜接触と、現在見逃したばかりのあの人達の出会いでとんとんでしょ」
何の為に、地道に他クラスに足繁く通ったと。
「ああ、接吻な。俺様以外とはすんなよ」
笑いながら言う浪瀬に殺意が……。
「当たり前でしょ!おえぇ………」
彼は一瞬驚き、すぐに幸せそうに顔を崩した。
「心底嫌そうな顔しやがって」
「だから当たり前なのよ。ごえぇぇ………」
「当たり前なんだな。…………それ、あと何回で気が済むんだ?」
「ぼえぇぇぇぇぇ。ぺっぺっ」
唇の感触が残っているのが嫌で、吐き出す。
「普通、本人の前でやるか?」
「本人の前だからやるのよ。最低だったアピールね。もうすんじゃないわよ」
「ほう?天邪鬼だね」
「何がよ」
「ほんとは嬉しいんだろう?恥ずかしがるなって」
「嬉しいとかんなわけ」
「俺がいなかったら、拭かずにそのままなんだろ?」
「無い無い無い無い」
「そういうことにしといてやるよ」
浪瀬はひとり納得し、私の手を引き立ち上がる。
そして上機嫌で下校する人の波に乗る。
「…………………」
浪瀬に手を引かれながら、考えてみた。
というか、なんで奴はこんなに機嫌いいのよ。
『接吻な。俺様以外とはすんなよ』
『当たり前でしょ!』
あ、返事ミスってる。
これじゃ、私は浪瀬としかキスしないことになる。
いや、今の所キスの予定はないんだけども。
あの返事のせいだと自惚れたくはないけど、事実、あれから機嫌がいい。
「そだ、報酬の件だけど」
「無いって言いましたよね」
「テスト明けの土日、空けとけ」
聞いちゃいねぇ。
「野枝の家まで迎えに行く」
「いや、来んな?」
「じゃー俺こっちだから」
聞いちゃいねぇなこいつはほんと!
繋いでいた手が離れ、浪瀬は改札をくぐる。
「見送りサンキュ!」
「見送らせてんでしょうが。とっとと去ねや!」
しっしっと裏手で払い、背を向ける。
数歩進んで振り向けば、まだそこに浪瀬は居た。
目が合うと大きく手を振ってくるものだから、恥ずかしくて逃げ出した。