◇桜ものがたり◇
遠野は、光祐さまに恭(うやうや)しく一礼すると、
間もなく、榛文彌を案内して戻って来た。
「突然に伺いまして、申し訳ありません。
本店に十数年ぶりに戻って参りましたので、ご挨拶に伺いました」
扉から入るなり、文彌は、白髪の頭を深々と下げて丁寧にお辞儀した。
光祐さまは、文彌の落ち着いた態度に接して、違和感を覚える。
以前の大蛇のように敵意を剥き出しにした激しさは、
どこからも感じられなかった。
風の便りで聞いた遭難事件からの性格の変化は、本当だったらしい。
「ご丁寧にありがとうございます。
榛様、どうぞ、おかけください」
光祐さまは、机から立ち上がると、文彌に椅子を勧める。
文彌は、桜河家の輝かしい君を見つめていた。
仕立てのよい濃紺の背広姿の光祐さまは、
若さと逞しさと自信を覗わせている。
正道を真っ直ぐに歩んできた清さが漲っていた。
十数年前の高等学校を卒業したばかりの庇護された青さは、
どこにも見当たらない。
とはいえ、この桜河家の君は、幼少の頃から、庇護されながらも、
運命を手中にする強さを内に秘めているのを文彌は感じていた。
遠野は、紅茶を応接台の上に置いて、一礼すると静かに退出した。
しばらくの間、沈黙が副社長室を占めていた。