◇桜ものがたり◇
光祐さまは、台所から部屋へ戻る途中、
得体の知れない不安に襲われて、奥さまの部屋の扉を叩いた。
部屋の中からは、奥さまの沈んだ声が返ってくる。
「母上さま、お加減が悪いのですか」
光祐さまは(父上さまも母上さまもご様子が変だ)と感じ、
祐里の振り袖に続いて、奥さまの留め袖姿に尚更不安が渦巻く。
旦那さまが帰宅してから、ほんの一時間ほどで、
桜河のお屋敷の空気は、翳りを見せていた。
「少し、頭が重くて。
昼食会までには回復しますから、心配なさらなくても
大丈夫でございます」
奥さまは、憂いを含んだ笑みを光祐さまへと向けつつも、
どのように説明すればよいのか言葉が見つからない。
「父上さまが祐里に振り袖を着るようにとおっしゃったのですが、
榛様は、それほど大切なお客様なのですか」
気軽な昼食会に振り袖や留め袖は不釣り合いな気がしてならず、
奥さまの顔を窺う。
「旦那さまは、本日の昼食会を、
榛様のご子息と祐里さんのお見合いの御席になさるお考えなの。
わたくしも先ほどお聞きしたばかりで、
反対意見を申し上げたところですが、
既に決めたことなので、従うようにと、旦那さまのご命令なの」
奥さまは、いつになく興奮した面持ちで、
旦那さまの意向を光祐さまに告げる。
光祐さまの心に「命令」の言葉が楔(くさび)となって突き刺さる。
「ぼくも反対です。祐里は、まだ十五です。
祐里に何も知らせないまま、突然見合いだなんて、
そのような事があってよい筈がありません。
父上さまは、何をお考えなのですか」
光祐さまは、心臓を打ち抜かれた気分になり、
どうにかしなければと、心ばかりが焦る。