◇桜ものがたり◇

 テラスにひとり残された文彌は、地団駄を踏み

(必ず僕の女にしてやる)

 と、祐里の胸の柔らかい感触が残った手を握り締めて、

 首筋の甘い香りを思い出しつつ、

 祐里への恋情ゆえの憎悪を募らせていた。


「ありがとうございます。柾彦さまがいらしてくださって助かりました。

 申し訳ございません。お洋服に葡萄酒が……」

 祐里は、レースの白いハンカチを取り出して、

 柾彦の肩口に飛び散った葡萄酒の滴(しずく)を拭き取る。


 祐里の白いハンカチは、深紅の葡萄酒が沁み込んで紅く染まり、

 それはまるで、祐里のこころの傷口から零(こぼ)れた鮮血のようで、

 柾彦には痛々しかった。


 柾彦は、未(いま)だに、祐里が小さく震えているのを気遣って、

 ハンカチを持つ祐里の手を握るとおどけて見せる。


「ありがとう、姫。先程、姫に気づいて声をかけようと思ったら、

 なんだか野獣が姫を追いかけていて、守人のぼくは、疾風の如く

 かけつけた訳です。

 野獣を退治できなかったのは残念でしたが、

 姫のお命はお守りできました」

 柾彦は、祐里に怖い思いをさせる前に、

 間に合わなかった自身を悔んでいた。


 祐里の冷たい手が柾彦の手の温もりで暖められていく。


「柾彦さまったら、また、御伽噺になってしまいますわ」

 祐里は、柾彦の優しさに包まれて、安堵の笑みを浮かべた。


 柾彦は、この際に乗じて祐里の手を握りしめつつも、

 先程、文彌が口にした

『光祐坊ちゃん』という名が胸の中に引っかかる。

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