ポケットに婚約指輪

「えっと」

「忘れたいんでしょ? 前の男の事」


小さく頷くと、彼は頬から手を離した。


「俺はお願いされるの好きなんだよね」


クスリと笑って試すような目で見られる。里中さんも時々意地悪だ。
望まれた言葉が、するりと私の口から零れていく。


「……彼のこと、忘れさせてください」


まるで変な誘いのようにも取れて顔から火がでそう。
真っ赤になった私は、再び膝に顔を埋める。

やがて彼の大きな手が私の頭の上に乗って、ゆっくりと撫でてくれる。
海風でパサパサになった髪はごわついていて、益々恥ずかしい。


「いいよ」


その返事に顔をあげると、里中さんの顔が近づいてくる。
キスをされるのかと目をつぶると、彼の唇は額に落ちた。


「付きあおうか」

「い、……いいんですか」


夢みたいな言葉に、ふわふわと浮いたような感覚になる。


「うん」


私のこと好きですか?

それは聞けなかった。
なんとなく、あの婚約指輪を思い出してしまって。


「……嬉しいです」


涙声でそういうと、彼は私の肩を抱き寄せてくれた。

互いに『好き』という言葉は告げない告白。
それでも、私にとってはとても幸せな一瞬だった。

黙って彼の肩に頬を寄せながら、繰り返す波の音に心の中だけで繰り返す。

好きです。
好きです。

言えない言葉を波の音に乗せて心に刻んだ。



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