ポケットに婚約指輪
「……あ!」
「あの日、貴方が指輪を渡したのは私です。人事総務部所属の塚本 菫といいます」
「同じ会社の人だったのか。それはすいません。なんか」
「いいえ。こんな高価な指輪、やっぱりいただくわけにはいかないと思って。それで、返しに来たんです」
そっと差し出したケースを、彼は大きな手で私の掌ごと掴むと強い調子で引っ張った。
廊下の角まで連れて来られたかと思うと、非常階段に押し込まれる。
「……ごめん! ちょっとこの指輪の話、人に聞かれたくないもんだから」
「あ。そ、そうですよね。私ってばすいません。ホントに」
でも、びっくりした。
体格はいいと思っていたけれど、まさかこんな有無を言わさぬ勢いで引っ張られた時に、少しも抵抗できないほど力があるとは思わなかった。
里中さんは、先ほどのより砕けた調子になって私の手を押し返す。
「えーっと。塚本さんだっけ。とりあえずそれはポケットに戻してくれる?」
「え? あのでも」
指輪のケースを見て迷う。
これを返したいって言ってるのに、聞こえてない?