副社長は溺愛御曹司
「神谷ちゃんだよ」
ああ。
その話か。
ヤマトの意識は、再びクローゼットに戻り、ここに水泳用の荷物を一式、置いておけないかなあ、と考える。
駅に隣接したジムを、たまに利用するものの、そのまま出社すると、濡れた荷物の置きどころに、いつも困っていたのだ。
「そんな名前だっけ」
秘書なんて贅沢なもの、いらないのにな。
自分のことくらい、自分でするのに。
今朝、よろしくお願いしますと言いにきた、若い秘書の顔を思い出そうとするけれど、まったく何も出てこない。
かろうじて、おとなしそうな、ちょっと柔らかい声が記憶に残っているくらいだ。
たぶん、ワイシャツの替えなんかも、置いといたら便利なんだろうなあ、と考えながらクローゼットを眺めていると。
お前、大丈夫なの? という、疲れたような兄の声がした。
とにかく、初対面が苦手だ。
もはや苦痛だ。
覚えられないのだ、人の顔が。
あと、名前も。
ヤマトにとって、初めて会う人間の顔というのは、なんだか不思議とうっすら光を放っているような、もやがかかっているような。
何かが邪魔をして、どうやってもはっきり見えないような、そもそも直視できないような、そんな感じで。
相手のどこに焦点を合わせて挨拶すればいいのかさっぱりわからず、自然目線はうろうろとさまようはめになり。
当然、顔なんて記憶できるわけもない。
苦手意識が先行しすぎて、脳が情報の受け入れを拒否しているんだろうと、最近は考えるようになっていた。
写真なら、大丈夫だ。
なかなかシンプルで使いやすそうなデスクについて、神谷という秘書の人事情報を眺めながら、改めて思う。