春秋恋語り
行き先を告げたあとタクシーの中は無言になったが、私の頭は次の台詞の選定で大忙しだった。
”寄って行きませんか? お茶でもどうですか” なんて、お茶っていう時間じゃないわね。
”私の部屋で もう少し話をしませんか” って、もう充分話はしたし、”まだ帰りたくありません” はいかにも誘ってるみたいだし、もうすぐつくのにこのまま別れるのはイヤだ。
なんとか言わなきゃ。
焦る私の心も知らず、タクシーはかなりのスピードで真夜中の道を走っていく。
いくつかの信号を過ぎ、高台にある私の部屋へとタクシーが向かう寸前、御木本さんが運転手に行き先の変更を告げた。
「すみません、少し戻ってもらえますか。さっきの信号を左に曲がって……」
あの……と言いかけた私の口は、強く握られた彼の手によって言葉を飲み込んだ。
着きましたよの運転手の声に、御木本さんはポケットに手を突っ込んで取り出した何枚かの千円冊を差し出すと 「お釣りはいらないよ」 と短く言ったと思ったら、私の体を押して車から降りるよう促した。
拒めない手につかまれ、そのままエレベーターホールへと歩いていく。
ほどなく降りてきたエレベーターに乗り込むと、彼の指が行き先の階を押した。
私も彼もまだ無言だった。
真夜中の密室はどこか淫靡 (いんび) で、秘め事を始める前の控え室のよう。
扉が開き、部屋への廊下を用心深く歩く。
誰が咎めるわけでもないのに、住人に足音を気付かれないように進んでいた。
部屋の中に入ったものの、真夜中の訪問を隣室に気付かれるのではないかとの思いから、居心地の悪さは拭いきれなかった。
ダイニングを抜けると、リビングの窓から夜景が一望できた。
ここにきてようやく気持ちが緩んだのか 「キレイね……」 と声が出ていた。
何のことはない、カーテンが引かれていない窓から街の明かりが見えているだけだったのだが、私には素晴らしい夜景が目の前に広がって見えた。
隣りにきた御木本さんは、ガラス戸を開け、ベランダへと私を連れだした。
「ステキなところに住んでるんですね」
「バツイチは、カッコイイって思わせたいからね」
「ふっ……」
一緒に体を揺らして笑いあった。
声を出して笑っていたが、真夜中だったと思い出し、二人で顔を見合わせて肩をすくめた。
「鳥居さんの採用のときって、すごい倍率だったって?」
「そうです、なんと15倍。だって、一人の採用枠に15人の応募があったんですから」
「チェッ、負けたか。俺のときは10倍だった。
俺が独り者だから採用されたって、もっぱらの噂だったそうだ」
「どうして?」
「この歳で独身って少ないだろう? 普通は子どもの2・3人はいるよ。家族手当がいらないってことらしい」
「まさか、仕事ができたから採用されたんですよ。それなら私だって似たようなものかも」
「なんだ? 君もひとりだからって?」
「結婚の予定は? ってあからさまに面接で聞かれました。
だから ”予定はありません。私は仕事がやりたくて採用試験を受けました。きっと即戦力になると思います” って売り込んだの」
私の答えが可笑しかったのか、御木本さんは口元を押さえながらも、体を曲げて笑っていた。
噂話をしていた女の子たちに対し、彼もいい気持ちはしなかったのだろう。
彼女たちのように縁故採用が多いものの、たまにではあるが至急の募集をかける事がある。
急な職員の退職で即戦力の人材を必要とするときだ。
私もその一人で、御木本さんも同じように急な募集があったときの採用だったはず。
私たちが互いを身近に感じるようになったのも、採用のいきさつが同じであったからかもしれない。