春秋恋語り
あら、意外にちゃんと寝てる。
もっと気の抜けた顔があるだろうと予想していたのに、口をしっかりと閉じ、行儀良く真上を向いて彼は寝ていた。
「朝ご飯食べませんか」 と寝顔に聞いてみたが無反応。
少しだけ顔を近づけて 「おはようございまーす。起きないのなら帰りますけど~」 と言った途端、腕をつかまれた。
「キャッ」
「黙って帰るなよ」
「狸寝入りだったんですね。ひどいなぁ」
私の驚いた顔がよほど嬉しいらしく、御木本さんは楽しそうにしていたが、つかんだ腕をグイと引寄せた。
「あの……放してもらわなきゃ、朝食の準備ができないんですけど」
「そんなのあとでいいよ」
私の胸はドキドキを通り過ぎて、ドクンドクンと鳴っていた。
朝食の準備が、と言いながら、腕を放して欲しくないと思っている。
思いがわかったように、御木本さんはさらに腕を引き私を抱え込んだ。
彼の右手が背中を上下し、顔はくっ付きそうなほど接近していた。
恥ずかしさで思わず目を逸らしたが、背中をなぞっていた手がトレーナーをめくり、胸元へせり上がり素肌へと滑り込んだ。
「飲んだらなんとかって家訓があったんじゃないですか?」
「酔いは覚めた……家訓にそむいてない」
「その家訓、都合よくできてるんですね」
「まぁね」
私を抱え込み、体をくるりと回転させた。
「手をあげて」
「せっかく着たのに」
「昨日の晩、押し倒されるつもりだったんだろう?」
「そうだけど……」
素肌が朝の空気に触れ、朝日にさらされる。
首筋をはう唇が冷えた肌を温め、からみついた彼の手足が無防備に体をさらけ出してしまった不安を和らげた。
乳房が御木本さんの大きな手に包まれ、柔らかな動きに息が漏れる。
指先の甘い刺激に思わず目を閉じた。
フレンチトースト用のパンが卵と牛乳に浸りすぎるのではないかと心配しながらも、私は御木本さんにすべてを預けた。
あれから2年、歴史バーに寄った夜は御木本さんの部屋に行くのが習慣になった。
店で話題に出た話の続きを語り明かしたことも何度かあったわね。
飲み足りないねと、グラスを傾けながら仕事の話になることも……
たまには男と女の雰囲気になりそうな夜もあったけれど、彼が家訓を破ることはなくて、私を誘うのは決まって朝方だった。
その頃からね、彼が私のことを梨香子と名前で呼ぶようになったのは……
恋人というには淡白な関係で、本部へ異動の打診があったと聞いたのも彼の腕の中だったのに、私は 「すごいわ、頑張ってね」 と彼の背中を押した。
どちらも、あと一歩を踏み出せないまま、気持ちも距離も遠のいてしまった。
何が足りなかったのかわからないけれど、何かが足りなかったってことね。
御木本さんとの距離を縮められなかった理由を、私はいまだに考えている。