春秋恋語り
金曜日の夜、僕は空港にいた。
空港にたどり着いたのは、最終便の出発40分前だった。
土曜日の始発の便で帰るつもりでいたのだが、予定よりも早く仕事にケリがついた。
そうなると、一刻も早く帰りたいとの思いに駆られ、急ぎ宿舎に帰り、昨日から帰省準備の整っているバッグをつかんで部屋を出た。
食堂に顔を出し
「すみません、今夜の食事はキャンセルします」
顔見知りになったおばさんに伝えて、折り返し駅に向かった。
のんびりバスなんか待っていられない、駅から乗ってきたタクシーを待たせていたのだ。
このまま空港まで走ってくれと言いたいところだが、さすがにタクシーで行くには遠すぎる。
もっとも電車の方が車より早く空港にたどり着くのだが、気持ちが急いて仕方がない。
「できるだけ急いでください」 と告げると、人のいい運転手は 「任せてよ」 と請け負い、裏道を駆使して飛ばしてくれた。
飛行機の座席はつい先ほど確保したばかりで、今夜動けると判断した時点でネットで空席状況を調べた。
金曜日の最終便は思いのほか込んでいたが、特別シートに空席を確認すると迷わずチケットを購入した。
カウンターの手続きもいらず、面倒な対応もない、カード一枚でチケットが手に入ってしまうのだからありがたい。
電車を降り、空港出発ロビーへと駆け込んだ3分後にはゲートをくぐっていた。
ほどなく搭乗案内が始まる旨のアナウンスがあった。
そこで千晶に連絡し、今日の帰省を知らせた。
電話の向こうの声は驚きながら 「お夕飯は?」 と僕の食事の心配をしてくれる。
『夜の便は軽食が出るから』
『あの、今夜は……』
どこに泊まるのかと言いたいらしい。
『千晶の部屋に行ってもいいかな』
『はい、待ってますね』
『うん。もうすぐ搭乗だから、これで携帯は切るよ。あとで』
あわただしい電話を終え、携帯の電源を切った。
今夜自分の部屋に帰るつもりは毛頭なく、はなから千晶と一緒に過ごすつもりでいたのだが、待ってますねとの返事にホッとした。
彼女にも予定があったかもしれないのに、そんなことは考えもせず、僕を迎えてくれるものだと信じていたのだから、実に勝手な思い込みだ。
もしかしたら本当に予定があったかもしれない、だが、待ってますねと言ってくれたということは、僕を優先してくれたということだ。
こんなことが嬉しいなんて、僕はどれほど舞い上がっているんだろう。
にやける顔を無理に引き締めて、搭乗の列に加わった。
座席に座ると全身の力が抜けていくのがわかった。
プラチナシートと呼ばれる、国内線のワンランク上の座席の座り心地はなかなかのもので、背もたれを倒しフットレバーを最大に傾けると、シートが水平に近い角度にまでになった。
ブランケットを借りて広げると、体は程よい温かさに包まれ眠気が襲ってきた。
”千晶の部屋に行ってもいいかな”
”はい、待ってますね”
すでに互いを受け入れた安心感が、彼女から迷いのない返事を引き出したのか。
それにしても、待っていますの言葉が、こんなにも嬉しいものだとは……
会いたくて、会いたくて、体より気持ちが前に進むなんてこと、今まで経験したことがなかった。
ふと、春の出来事を思い出した。
電話口の鳥居さんの体調の変化に気がつき、東京から新幹線に飛び乗ったという彼も、こんな気持ちだったのだろう。
好きな相手へ向ける感情は、とてつもないエネルギーを生み出すものらしい。
今の僕は、ただただ千晶に会いたい、その一心だ。
くすぐったさと満足感が入り混じり、気恥ずかしさに目を閉じた。
まぶたを下ろすと目を開けるのが億劫だった。
用意された軽食に気がつくこともなく、僕はそのまま到着まで眠り続けた。