不誠実な恋
聞こえていたはずの水音が止み、静かに足音が近付いて来る。
嫌でも耳に入る雨音に両手で耳を塞ごうとするあたしの手を取り、嘘くさい笑顔を浮かべた侑士がずぶ濡れのまま切なげな目であたしを見つめていた。



「ただいま」



その一言で、どれだけ救われるか。今のこの状態でどれだけ安心感を感じさせてくれるか。それをわかってここへ帰って来たのだから、この男は本当に性質が悪い。

「今日…土曜だよ」
「急患やって嘘ついた」
「バレバレじゃない。精神科医のくせに」

そう、あの頃はまだ研修医期間中で外科にいたけれど、侑士の専門は精神科で。
たとえ急患が入ったとしても、外科や内科を専門的にしているわけではない侑士が残ることは少ないのだ。
結婚してもう随分と年月が経つのに、奥さんがそんな嘘を見破れないはずもない。

「家なんか別にどうってことない。それに、ここに急患がおるんは嘘やないからな」
「自分が週末は家に帰るって約束したくせに」
「放っとけるわけないやん。遅なってごめんな」
「ホントよ…バカ」

重なった唇は、雨に濡れたせいかとても冷たくて。初めて触れた時の指先の感覚を思い出させる。
弱りきったあたしの心の中にいとも簡単に侵入してきて、心はおろか生きていく全ての時間さえも奪い取ってしまったあの時。
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