猫 の 帰 る 城
小夜子は本棚から文庫本を一冊抜こうとして、こちらに顔を向けた。
無防備な横顔から一変、驚きの表情に変わる。
「…アルバイトしてる書店って、ここだったの」
僕の格好を見てすべてを理解したようだった。
書店の名前が入った制服と僕の顔をしげしげと見つめる。
「言ってなかったっけ」
「書店ってことしか聞いてなかったわ」
お互い語ろうとしないことは尋ねない。
暗黙のルールがこんなところで偶然を生むことになるとは。
不意に彼女の手元に目をやる。
文庫本が一冊。
それは以前、僕が好きだと言っていた作家の最新作だった。
「それ…」
彼女は僕の視線に気づいて肩をすくめた。
ちょっと照れくさそうに笑いながら。
「あなたが薦めてくれたんじゃない」
驚いた。
本なんてまるで興味のない、ファッション雑誌しか読んでいるところを見たことがない彼女が、僕の薦めた推理小説を手にしているのだ。
「…何よ、わたしが本読んだら悪いの」
驚く僕を決まり悪そうに睨む。
その様子が可笑しくて思わず笑ってしまう。
「いいや。いい心意気だ」
「ふん、偉そうなこと言って。面白くなかったら許さないわよ」
「それは問題ない」
どうだか、とわざとらしく疑うような目を僕に向ける。
すると突然小夜子の表情は一変し、思い出したようにはっとした。
眉をひそめ、僕を見つめる。
「ちょっと待って。あなたのアルバイト先がここだってことは…」
「どうしたの、ヒロ」
僕もはっとした。
はっとして顔を上げると、スタッフルームの扉の前に真優が立っていた。
そうだ。
僕がここで働いているということは、真優もここで働いているということ。
僕より一足先に休憩をとっていた真優が、勤務に戻ろうとスタッフルームから出てきたのだ。
「真優」
ここ何年かは経験していなかった修羅場と呼ぶにふさわしいものがやってきた。
それは土曜日の昼下がり、大好きな作家の本棚の前で。