桜の樹の下【短編】
桜の樹の下
夜だった。

満開の桜の樹々。


薄明かりの下にひときわ大きな桜の樹がひとつ。

樹の下には、黒い服の男がひとり、人待ち顔で佇んでいる。

そこへ白い服の女がひとり、やってくる。
女は何度かためらうように視線を彷徨わせ、意を決したように声を出した。


「あの、」


男は返事をしない 。
女は遠慮がちに重ねる。


「………あの。」


男はようやく自分が声をかけられている主だと気付く。


「え、俺?」


色白の綺麗な女性だ。
伏せた瞳に、長いまつげが影を落としていた。
女は男の問いにおずおずと頷き、続けた。


「……覚えてますか?」


「は?」

「すみません覚えていないならいいんです。」


突然の思いがけない問いかけに、男は間抜けな声をあげてしまった。
女は逃げるように顔を伏せる。


「いや、あの、何をですか?」

「いいです、すみません。」

「…はぁ…。」


男が聞き直しても、女は顔を伏せ、首を振るばかりだ。

…覚えている?…何を?
この女性と、かつて会ったことがあるのだろうか?
男は頭の中で朧げな記憶をまさぐる。
その中に女性の面影を探してみる。

気まずい沈黙が、しばしその場を包んだ。

< 1 / 13 >

この作品をシェア

pagetop