桜の樹の下【短編】
「…あの、少しだけここにいてもいいですか?」

「はぁ、どうぞ。」


男は女と微妙に距離をとる。
気まずい空気は拭えない。

自分と彼女のことを知っている?
どこかで見たことがあるような気もする。
男は過去の記憶を必死で掘り返そうとしていた。


「この桜、好きなんですか?」


女が突如、空気を変えるように声をかける。


「待ち合わせに桜の樹なんて珍しいですよね。」

「そうですか?」

「だって、いっぱいあるのに。どの桜の樹か判るんですか?」

「綺麗ですからね、ここの桜。」


そう、この辺りにひしめく桜の樹々の中でも、ひときわ大きく、美しい。
男はこの桜だけは、間違えない。
そこに想い出が埋まっているから。


「綺麗、ですか。」

「え?」


女は思わぬ言葉尻を拾ってくる。


「貴方も、そう思いますか。」

「え、ええ、綺麗だと思います。」

「そうですよね、綺麗、ですよね。哀しいくらいに綺麗。」


女は桜を見上げる。
風にはらりと花びらが舞った。
男は問う。


「哀しいくらい?」

「桜が綺麗だなぁって思うと、哀しくなるんです、私。」

「ああ。」

「解ります?」

「解らないでもないです。桜は散るからこそ美しいっていうことでしょう?」

「散るのはどの花も一緒です。」


女は少し子供っぽい言い方で異論を唱える。
こういった女の扱いは慣れていた。
男は焦らずフォローをする。

「ええ、だけど、桜の場合は散る頃が一番美しいでしょう。」

「…そうですね。」

「美しく散るから、日本人は桜が好きなんですよ。滅びの美学ってやつです。」

「そうかもしれない。」


男の言葉に、女は同意して微笑んだ。
その儚げな微笑みに、男は既視感を覚えた。
…どこかで、以前、こんな話を?

ふたりの間に再び沈黙が舞い降りる。
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