桜の樹の下【短編】
『あの』


ふたり同時に声をあげた。
女が順番を譲るそぶりを見せたので、男は慌てて言葉をつなぐ。


「もしかして、どこかであったことありませんか?」

「思い出してくれたんですか??」


女は驚いた様子で目を見開く。
男は安堵したように息を吐いた。


「ああ、やっぱり。」

「嬉しい、覚えていてくれたんですね、私のこと。」

「ええと、覚えていた、というか、見覚えがある気がしただけで。」

「え?」

「さっきの会話、どこかで一度した覚えがあって。」

「ええ」


女は微笑みながら深く頷いた。
その笑顔に後ろめたさを感じながら、男は続ける。


「でも、失礼ながら、何処であったのかとか、誰なのかまでは覚えていないんですが…。」

「…そうなんですか。」


声が小さくなると同時に、女の顔から表情が消えた。
無理もない。
過去に会ったことは確かであるのに、誰だかわからない、というのだから。
男は心底申し訳ない気持ちで謝る。


「すみません、最近どうも記憶があやふやで。年なんですかね。」

「まだ若いじゃないですか。」


女はくすくすと小さく笑った。


「ええ、そのはずなんですけど。すみません。」

「そんなに謝らないでください。」

「すみません。」


女は懐かしむように目を細めて笑う。


「ふふ。可笑しい。昔に戻ったみたい。」

「昔?」

「よくこんな会話してましたよ。」

「俺と?」


女は頷いて、遠くを見つめた。

「私、割と気が短かくて。だから私が怒りそうになるといつも貴方はすぐに謝るんです。私、謝ってほしかったわけじゃないから、余計に機嫌が悪くなったりして。」

「…そうだったんですか。」
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