桜の樹の下【短編】
どうしたことだろう。
女の言うことに、なにか心当たりはあった。
記憶の奥底に、その気配はあった。
だが、はっきりとした形が男には見えなかった。
男はたまりかねたように問う。


「あの、それで、非常に申し訳ないんですけど、貴方はどなたなんでしょう?」

「さあ、誰なんでしょうね。」


女は遠くを見つめながら答えをはぐらかす。


「誰なんでしょうじゃないですよ、教えて下さい。」

「思い出さない方がいいことかもしれないですよ。」


女は感情を抑えた声で制した。
男は息をのむ。


「何かあったんですか、俺達。」

「何か?そうね、私は何かあったと思ってたけど、どうなんでしょう。もしかすると何もなかったのかもしれない。」

「どっちなんですか。」

「それは貴方が決めることだわ。」

「俺が?だって、思い出せないのに。」

「記憶に無いなら、きっと私達の間には何もなかったんでしょう。当たり前のことじゃないですか。」

「でも、貴方は何かあったって覚えてるんでしょう?」

「いいえ、いいの。もういいんです。忘れたいから、思い出せないんでしょう、きっと。」

「思い出したいから聞いているんでしょう?」


男から逃げるように歩いていた女が、その言葉にふと足を止めた。


「思い出したい、ですか。」


男ははっきりと答える。


「思い出したいと思ってます。」


女は男の方に振り返る。
涙のたまった瞳で、男を睨んでいた。

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