桜の樹の下【短編】
「私、怒ってるんですよ、わかりますか。」

「わかります、すみません。」

「理由も解らないのに謝らないで下さい。よけい気に障ります。」

「えっと、じゃあ、理由を教えて下さい。」

「貴方が忘れているからです。『何かあったんですか』なんて聞くからです。」

「やっぱり、何かあったんですね。」

「ほら、またそうやって聞く。思い出せないなんて、本当に失礼なことですよ。」

「ごめんなさい。」

「私は貴方のことを忘れたことはなかったのに、ずっとずっと覚えていたのに、忘れられなかったのに、貴方は私のことをすっかり忘れてしまっているなんて。私がどんなに哀しかったか解りますか?」

「ほんとうに、ごめんなさい。」

「そんなに謝らないで下さい。だから嫌なんです、私が悪いみたいな気になるじゃないですか。」

「ごめんなさい。」

「だから…もう謝らないで下さい。」

「はい。」


意気消沈する男を見て、女はため息をひとつついた。


「…相変わらずですね。」


相変わらず、謝ってばかりいる。
確かに記憶の奥の方にぼんやりと見える。
大事な存在だった。
だが、鍵がかかっているかのように、はっきりとそれを取り出して確かめることができない。
鍵は、この女にもらうしかないのだ。
男は意を決して、再び問う。


「それで、本当に申し訳ないんですけど、俺達何だったんですか?」


女は男をしばらく見つめ、ふいに地面を指差した。


「寝てみてくれますか。」

「え?」

「思い出させてあげます、寝てみて下さい。」

「いや、ここに?」

「じゃあ寝なくてもいいです、ここに来て上を見上げて下さい。」


突拍子もない提案に戸惑いつつも、男はしぶしぶと従う。
女も隣に立ち、上を見上げた。

真っ黒な夜の闇を背景に、桜が一面に浮かんでいた。
< 6 / 13 >

この作品をシェア

pagetop