聴かせて、天辺の青

「これ見せてなかったわね、今朝彼女が置いていったの」



と言って、おばちゃんが差し出したのは名刺。そこには彼女の名前が、はっきりと記載されている。
『葛原里緒(くずはらりお)』
さらには会社名まで。



「本当だ……、これって会社の名前?」

「音楽事務所ですって、海棠さんがここに来る前に働いていたそうだけど、また戻って欲しいって話してたわ」



おばちゃんが声を殺して天井を見上げた。二階に居る海棠さんのことを気にしているのだろう。
だけど私には会話が聴こえているかということより、彼女がここに来た理由の方が重要だった。



名刺を見たからといって、簡単に安心することはできない。
過去にこだわるつもりはないけれど、彼女が元カノなどではなかったと言い切ることはできない。かつて一緒に仕事をした女性だったとして、どうして彼が名前で呼ぶ必要があるのか。



次第に悪い方へと考えが傾いていくのを止めることができなくなっていく。
本当は彼を信じたいのに信じたくて堪らないのに。何にも話そうとしてくれないから、余計なことばかり考えてしまって止められない。



「戻るって、どうして今さら……」

「さあ、どうしてかしら……、彼に謝りたい、もう一度戻ってきて欲しいと言ってたわ」



彼女は彼と同じ道を歩んできた同士。もう一度よりを戻したいと望んでいるのは、きっと男女の関係としてではないはず。
懸命に言い聞かせた。




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