星月の君
若葉様、という声が部屋の奥から聞こえ、ああと私はしゃがみこんでいた体勢から立ち上がる。
もう時間だ。
そう、去ればいい。ただ――――。
そう思ったのに。
「また、いつの日か笛の音をお聞かせ願えますか」
何故こんなことをいったのだろう。
返事に困るだろうに、などといってから後悔した。ああ私というものは愚か者め。
だが以外にも、御簾から僅かに手を出し、彼女は扇を差し出す。
「機会があれば、お聞かせしましょう」
姫様そろそろ、と聞こえたときには私は既に歩き始めていた。早足に、そして逃げるように。
思わず受け取ってしまったその扇は、もちろん彼女のものだろう。なぜ彼女は扇を差し出したのかわからないが…、約束の証、とでもいうのだろうか。
「ちょっときいてよー行成!顕季ったら僕のこの恋文が駄目だっていうんだよう!」
「あれは明らかに駄目だろう!あれでは絶対ひかれる!」
扇を衣服に押し込めるようにしてしまい、再び敦忠らのもとへ戻った自分に絡んできたのは勿論敦忠である。
べったりと絡んでくるので溜め息をつきたくなる中で、あれと思った。
顕季殿が何故か紙を手に「甘い言葉が全てではないっ」などとぶつぶついっている。
彼もまたどうやら、飲みすぎたらしい。
わかったわかった、と敦忠を適当にあしらいながら、ぼんやり思う。
まるで夢のような、幻のような、あの笛の音が、若葉という女性が奏でていたという事実のみが、私を酷く揺れ動かしていた。
* * *