バイバイ南
夕方、家に帰るとお父さんもお母さんもいなかった。
お父さんはどんな気持ちで会社にいるんだろう。ちゃんと働いているだろうか。
お母さんはきっと病院だ。泣いているだろう。
僕は台所で手洗いうがいをしようとしてしないで、水を皿に注いだ。
か細い声で鳴いて、にょんにょんがしのしのと歩いてくる。
もふもふの毛をもつ我が家の猫をにょんにょんと名付けたのは、幼稚園児だった頃の南だ。
南はパワフルすぎて先生に怪我ばかりさせる問題児で、補助輪つきの自転車に乗ってさ迷うというのが当時の趣味だった。
僕は南と同じ幼稚園に通うだけのしがない幼児で、そんな僕達の性格は月と太陽くらいに違っていたのだが周囲から浮いているというのは同じだった。
先を行きすぎてみんながついていけない南と、とろすぎて遅れてばかりいる僕は、そんなわけで周囲から弾きだされた時、幼稚園の片隅にあるベンチでよくしりとりをした。
そして僕ばかり負けていた。
僕が負けを重ねるうちに、南は僕をか弱き者と判断したらしい。
か弱き者は強き者に従わなければならない。
「いーい? 今日からあんたはあたしの家来よ。逆らったら死刑よ」
絶対的な口調で、ある日裁判官のようにそう言った。
「しけいってなに」
「死ななくちゃいけないってことよ」
わお。
馬鹿な僕はうわわぁああんと泣いた。
死にたくないよー、びぇーん。
「あたしの家来になったら死なないよ」
「じゃあ、ぼく、なる」
それで僕はそれから毎日南と遊ばなければならなくなった。
家でお菓子を食べてゆっくりしたい日もあったのに、言うことをきかなかったら死ぬと脅されるもんだから、遊ばないわけにはいかなかった。
そして、南の自転車遊戯に付きあわされて三日間行方不明になったり、川に落ちて死にそうになったり、おばあさんをひきそうになったり、トラックに突っこみそうになったりした。
にょんにょんは南とのデスレース中、僕がひいてしまった憐れな仔猫だ。
ぐったりした猫を見て、南は真っ青になった。
川に落ちても骨折しても泣かず、僕が蜂に刺されまくってアナフィラキシーを起こしても泣かなかったくせに、壊れたように号泣した。
僕達は必死で猫を家に運び、病院に連れていってもらった。
幸い命に別状はなく、猫は僕が飼うことになった。
南が僕に命令したからだ。
飼えと。