渡り
渡り
――大きな邸の一室。
暗い部屋に揺れるは灯火。
「北の方様……殿のお渡りは」
若い女が、不安げな顔で主に問い掛けるも、主は儚げに微笑むだけ。
だが、どんなに待っても、この主の待つ者の来る気配は無い。
「何と言う事なのでございましょう。殿は此処に立派な北の方様がいらっしゃるというに、お側女などに……」
「おやめなさい」
一人が不満をぽろりと溢したら、女主は窘めた。
「殿を悪う言うてはならぬ」
「…はい」
不満を溢した女が返事をすると、女主は再び顰めっ面を微笑ませた。
「そなたたちは休んでおってもよいのですよ」
「いえ…」
暗く静かな室内に、女主の優しげな声が響く。
更に数刻経っても、待つ男は来ない。
「北の方様、もうお休みになられた方が…」
もう夜も更けている。
「もう少し、お待ち致しましょう」
だが、この女主も分かっているのだ。
待ち焦がれる人は来ないと。
今宵も、これからも、待ち焦がれる夫は来ないのだと、分かっている。
分かっても尚、女主は待ち続けている。
側で見ている女房は皆心を痛めて主を見つめていた。
愛しい人はまだ来ない。
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