製菓男子。
「ごめん、違うんだよ。そうじゃないんだよ」


塩谷さんの手は、わたしの手を避けるように手首を掴んで、引き寄せる。


「ごめん、いやかも知れないけど、聞いて。俺はきみのお陰で、この店を開こうって決められたんだよ」


塩谷さんからはふうわりと甘い香りが漂ってくる。
お砂糖と卵とミルクと、それらが混じったカステラのような香り。
もう骨身にまでお菓子の香りが染みついてしまったのかもしれない。


「俺が十五のとき、きみの注意を聞かないで冗談半分できみに触れて、自分の身に起こる不幸を事前に知ってしまったことがあるんだよ。半信半疑ですごしていると、言われたとおりのことが起こった。なんてことを言ってくれたんだ! って、自分のせいでわかったことなのに怒りの気持ちが湧いてきて、文句を言ってやろうともう一度エイタの家に行ったんだ。そうしたらきみがキッチンでビスケットを焼いて待っていた。黒ごまビスケット。「栄養がたっぷり入っているのよ」って言って。俺がまたここに来ることもわかっていたんだろうな」


塩谷さんとの記憶が月曜日と結びつかない。
覚えていない。

「ゼン、見てるならハンカチかタオル持ってきて」と茶目っ気たっぷりに塩谷さんが言った。
いつのまに宮崎さんは二階から下りてきたのだろう。


「“お菓子は人の心をほぐすんだよ”ってきみが言って、そのとおりだと気づいた。俺はそのときのきみにね、憧れちゃったんだ。人にやさしい気持ちをわけてあげられる、そんなきみのようにお菓子を作れる人になりたいって―――ありがと、ゼン」


藍色のタオルがわたしの目もとに差し出された。
受け取ると、そのタオルからあんパンのような、芳しい香りがする。
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