あの猫を幸せに出来る人になりたい
三日後の土曜日の夜。
斉藤家に、一本の電話が届いた。
倉内と名乗る女性からで、猫を引き取りたいという話だった。
母が電話で慣れたように応対しているのを、花は食卓でご飯を食べかけた姿勢で止まったまま聞いていた。
口の中の白米の存在を思い出すのに、しばらくかかる。
そっか、よかったよかった。
もぐもぐと口を動かして、花は倉内楓のことを思った。
彼は、やり遂げたのだ。
猫を家族にすべく、彼は両親と戦って勝ったのである。
「明日、倉内さんが細かいお話に来るそうよ」
電話を切った母が、花に報告をしてくれる。彼女は、再び口の中にご飯を突っ込んでいたので、笑顔で親指だけ立てて返事をした。
※
「この度は、息子がお世話になりまして」
花は、その光景を、「おお」という感嘆と共に見ていた。
倉内先輩は、家族と共にシェルターに現れたが、何と両親とセットだったのだ。
これは、犬猫を預ける家庭としては、理想的である。
子供が小さいならいざ知らず、高校生の息子なのだから、せいぜい片方の親が来るものとばかり思っていたのだ。
両親ともども、猫のことを了承している証拠だった。
なるほど、色が薄いのはお父さんの血か。
花の父と倉内の父が挨拶しているのを、彼女は納得しながら見ていた。
お母さんは日本人だが、お父さんはどう見てもアングロサクソン系の白人だったのだ。面長で難しそうな顔立ちに見えるが、浮かべている笑顔は優しい。
「あ、倉内ってイギリス系のクラウチですか? てっきり、漢字の方かと」
「いえいえ、帰化してますので漢字で合っています。イングランド人ではなく、カナダ人でしたし」
倉内の父親の日本語は、よく聞かないとネイティブだと間違うくらい。
そして、楓(かえで)という名前の由来も、父の言葉が語ってくれた。カナダの国旗の植物を、そのままもらったのだろう。
「父さん、猫舎に行ってていい?」
父親には、多少遠慮がちではあるものの、息子もどもりはしないようだ。「よろしいでしょうか」「ええ、どうぞ」と、父同士の会話の後、倉内楓は軽く頭を下げて、一人で猫舎へと入って行った。
「息子は……非常に人見知りが強くて……ああ、生まれてからずっと日本で育っているんですが、見た目がちょっと違うせいか、学校では浮いていたようです」
息子が完全に建物の中に消えた後、倉内氏は小声でそう話し始めた。
「家でもいつも静かで、ふさぎこんでいるのではないかと心配していたのですが、一昨日、決死の顔で私に『猫を飼いたい』と言い出しまして」
そこで、側に控えていた彼の妻が、ふふと微笑んだ。きっと、その時の息子のことを思い出しているのだろう。
「話を聞いてみると、学校で子猫を見つけてこっそり餌をあげていたのを、ここのお嬢さんに説得された、と」
視線が、突然花に飛んで、彼女はどぎまぎした。突然、話の真ん中に自分が来るなんて、思ってもみなかったのだ。
「『僕は、あの猫を幸せに出来る人になりたい』と、熱烈に言われましてね……何を聞かれても、うんか、ううんくらいしか言わなかった息子の情熱に驚きました。きっと、息子にもいい影響を与えてくれると思い、妻とも話し合って飼うことに決めました」
微笑ましい家族の関係に、場が和む。
そこにいる皆が、ほんのちょっとずつ頬を緩めて目を細めるのだ。
温かで、幸福な時間。
その時間の中に、猫舎から顔を出した倉内楓が混じる。
「あ、あの……ね、猫、抱いていいですか?」
彼の視線は、花の父に。控えめな声ではあるが、ちゃんと意思表示をしている。
父は、ちらと花を見て、「行ってあげなさい」と言った。
いいのかな?
花は、「そっちに今から行きますが、大丈夫ですか?」と、彼に声をかける。
猫舎の、そう広くはない空間に一緒にいるのを、彼が耐えられるだろうかと、心配になったのだ。
「う、うん」
戸惑いながらも、彼が頷くのを見て、花はゆっくりと歩き始めた。
彼は少しずつ、猫舎の中へと身体を引っ込めて行く。
子猫は、大きな病気もなく、他の子猫と同じくらいの大きさだったので、同じケージに入れていた。
他の子猫と一緒にすることで、相手に与える痛みの加減を、覚えさせるためだ。これを知っている猫は、強くひっかいたり噛みついたりすることが少ない。
新しく入った白猫は、いまのところ他の子猫との関係も良好で、いまも他の毛玉に埋もれるように眠っている。
そんな猫玉のケージの前で、花は足を止めた。
彼も頑張っているようで、すぐ隣に立ったまま、それ以上奥へ逃げようとはしなかった。
カチャリとケージのふたを開け、花は眠っている白い子猫を抱き上げた。
にゃあと、寝ぼけながら鳴くその身を、彼の方に差し出す。
「あ、ありがとう」
胸に抱きしめて、倉内は安堵と幸福のため息をついて、口元に小さな笑みを浮かべる。
温かで柔らかな可愛らしい命が、いま彼を何よりも幸せにしているのが分かった。
猫舎の外から、親たちの明るい笑い声が聞こえてくる。
向こうは、話が弾んでいるようだ。
「名前……」
猫を抱いたまま、倉内が、ぼそりと言葉を落とす。
ああ、猫の名前を考えているのだろうかと、花は黙って次の言葉を待った。
「えっと……き、君の名前……き、き、聞いてなかった」
しかし、そこでまさかの言葉が投げられた。
ええっと、驚いて顔を上げてしまう。
思わず、真正面から倉内の目を見てしまった。日本人より、もう少し薄い茶色の目。
「……!」
彼も、それにはびっくりしてしまったのだろう。一瞬硬直した後、ばっと目をそらされてしまった。
慌てて、花も視線を落とす。
「さ、斉藤 花です。くさかんむりに、化けるの花」
少し慌てて名乗ったために、余計なことを言ってしまった。『華』という漢字との混同を避けるために、正しく名乗る時に使うのだ。シェルターを訪れる人などに名乗る時の癖が、こんなところで出てしまった。
年配の方などと話をする時、彼女の名前は古風なので、『どっちのはな?』とよく聞かれるのだ。『簡単な方の花です』とか、『普通の方の花です』とか、いろいろ答えにはバリエーションがあったが。
そんなことを一人で脳内で言い訳していると、子猫を優しく撫でながら、倉内楓は、こう言った。
「あ、ありがとう、は、花さん。僕に、猫を幸せにする方法を、お、教えてくれて」
ちゃんとお礼が言いたかったと、彼はどもりながらではあるが、微笑みと共に語りかけてくれた。
頬にさす、赤い色。
うわぁ。
花は、落ち着かない気持ちになった。
こ、この人、天然のヤバい人だわ、と思ったのだ。
家族の影響のせいか、彼は普通の日本人男子とは、微妙にずれた言葉を使うことが判明したのである。
もしも、さっきの言葉をどもらずに言われたならば、どれほどの女が勘違いして墜落していくことだろうか、と。
そして、これは学校では浮くはずだ、とも思った。
こんな言葉を向けられたら、女生徒は彼に突撃するだろうし、男子生徒にはやっかまれるだろう。
おそらく、初めて体育館裏で会った時も、女生徒に突撃されていたに違いないと花は確信した。
そんなことを、小さい時から繰り返していたら、対人恐怖症になってもおかしくはない。
「い、いいえ、両親を説得したのは、倉内先輩です。その子を、幸せにしてあげてください」
心温まるというより、心落ち着かない気分になるのは、彼の笑みのせいだろう。
ずっと距離を取っていた人が、距離を縮めたのがはっきり感じられるのだ。
タロと彼の違いは、言葉をしゃべることくらいだと思っていた花は、それが大きな間違いであることを思い知ることになる。
タロからの好意は、無条件で喜んで受け入れられるが、彼からの好意を受け取るには──気恥ずかしさでいっぱいになるのだから。
斉藤家に、一本の電話が届いた。
倉内と名乗る女性からで、猫を引き取りたいという話だった。
母が電話で慣れたように応対しているのを、花は食卓でご飯を食べかけた姿勢で止まったまま聞いていた。
口の中の白米の存在を思い出すのに、しばらくかかる。
そっか、よかったよかった。
もぐもぐと口を動かして、花は倉内楓のことを思った。
彼は、やり遂げたのだ。
猫を家族にすべく、彼は両親と戦って勝ったのである。
「明日、倉内さんが細かいお話に来るそうよ」
電話を切った母が、花に報告をしてくれる。彼女は、再び口の中にご飯を突っ込んでいたので、笑顔で親指だけ立てて返事をした。
※
「この度は、息子がお世話になりまして」
花は、その光景を、「おお」という感嘆と共に見ていた。
倉内先輩は、家族と共にシェルターに現れたが、何と両親とセットだったのだ。
これは、犬猫を預ける家庭としては、理想的である。
子供が小さいならいざ知らず、高校生の息子なのだから、せいぜい片方の親が来るものとばかり思っていたのだ。
両親ともども、猫のことを了承している証拠だった。
なるほど、色が薄いのはお父さんの血か。
花の父と倉内の父が挨拶しているのを、彼女は納得しながら見ていた。
お母さんは日本人だが、お父さんはどう見てもアングロサクソン系の白人だったのだ。面長で難しそうな顔立ちに見えるが、浮かべている笑顔は優しい。
「あ、倉内ってイギリス系のクラウチですか? てっきり、漢字の方かと」
「いえいえ、帰化してますので漢字で合っています。イングランド人ではなく、カナダ人でしたし」
倉内の父親の日本語は、よく聞かないとネイティブだと間違うくらい。
そして、楓(かえで)という名前の由来も、父の言葉が語ってくれた。カナダの国旗の植物を、そのままもらったのだろう。
「父さん、猫舎に行ってていい?」
父親には、多少遠慮がちではあるものの、息子もどもりはしないようだ。「よろしいでしょうか」「ええ、どうぞ」と、父同士の会話の後、倉内楓は軽く頭を下げて、一人で猫舎へと入って行った。
「息子は……非常に人見知りが強くて……ああ、生まれてからずっと日本で育っているんですが、見た目がちょっと違うせいか、学校では浮いていたようです」
息子が完全に建物の中に消えた後、倉内氏は小声でそう話し始めた。
「家でもいつも静かで、ふさぎこんでいるのではないかと心配していたのですが、一昨日、決死の顔で私に『猫を飼いたい』と言い出しまして」
そこで、側に控えていた彼の妻が、ふふと微笑んだ。きっと、その時の息子のことを思い出しているのだろう。
「話を聞いてみると、学校で子猫を見つけてこっそり餌をあげていたのを、ここのお嬢さんに説得された、と」
視線が、突然花に飛んで、彼女はどぎまぎした。突然、話の真ん中に自分が来るなんて、思ってもみなかったのだ。
「『僕は、あの猫を幸せに出来る人になりたい』と、熱烈に言われましてね……何を聞かれても、うんか、ううんくらいしか言わなかった息子の情熱に驚きました。きっと、息子にもいい影響を与えてくれると思い、妻とも話し合って飼うことに決めました」
微笑ましい家族の関係に、場が和む。
そこにいる皆が、ほんのちょっとずつ頬を緩めて目を細めるのだ。
温かで、幸福な時間。
その時間の中に、猫舎から顔を出した倉内楓が混じる。
「あ、あの……ね、猫、抱いていいですか?」
彼の視線は、花の父に。控えめな声ではあるが、ちゃんと意思表示をしている。
父は、ちらと花を見て、「行ってあげなさい」と言った。
いいのかな?
花は、「そっちに今から行きますが、大丈夫ですか?」と、彼に声をかける。
猫舎の、そう広くはない空間に一緒にいるのを、彼が耐えられるだろうかと、心配になったのだ。
「う、うん」
戸惑いながらも、彼が頷くのを見て、花はゆっくりと歩き始めた。
彼は少しずつ、猫舎の中へと身体を引っ込めて行く。
子猫は、大きな病気もなく、他の子猫と同じくらいの大きさだったので、同じケージに入れていた。
他の子猫と一緒にすることで、相手に与える痛みの加減を、覚えさせるためだ。これを知っている猫は、強くひっかいたり噛みついたりすることが少ない。
新しく入った白猫は、いまのところ他の子猫との関係も良好で、いまも他の毛玉に埋もれるように眠っている。
そんな猫玉のケージの前で、花は足を止めた。
彼も頑張っているようで、すぐ隣に立ったまま、それ以上奥へ逃げようとはしなかった。
カチャリとケージのふたを開け、花は眠っている白い子猫を抱き上げた。
にゃあと、寝ぼけながら鳴くその身を、彼の方に差し出す。
「あ、ありがとう」
胸に抱きしめて、倉内は安堵と幸福のため息をついて、口元に小さな笑みを浮かべる。
温かで柔らかな可愛らしい命が、いま彼を何よりも幸せにしているのが分かった。
猫舎の外から、親たちの明るい笑い声が聞こえてくる。
向こうは、話が弾んでいるようだ。
「名前……」
猫を抱いたまま、倉内が、ぼそりと言葉を落とす。
ああ、猫の名前を考えているのだろうかと、花は黙って次の言葉を待った。
「えっと……き、君の名前……き、き、聞いてなかった」
しかし、そこでまさかの言葉が投げられた。
ええっと、驚いて顔を上げてしまう。
思わず、真正面から倉内の目を見てしまった。日本人より、もう少し薄い茶色の目。
「……!」
彼も、それにはびっくりしてしまったのだろう。一瞬硬直した後、ばっと目をそらされてしまった。
慌てて、花も視線を落とす。
「さ、斉藤 花です。くさかんむりに、化けるの花」
少し慌てて名乗ったために、余計なことを言ってしまった。『華』という漢字との混同を避けるために、正しく名乗る時に使うのだ。シェルターを訪れる人などに名乗る時の癖が、こんなところで出てしまった。
年配の方などと話をする時、彼女の名前は古風なので、『どっちのはな?』とよく聞かれるのだ。『簡単な方の花です』とか、『普通の方の花です』とか、いろいろ答えにはバリエーションがあったが。
そんなことを一人で脳内で言い訳していると、子猫を優しく撫でながら、倉内楓は、こう言った。
「あ、ありがとう、は、花さん。僕に、猫を幸せにする方法を、お、教えてくれて」
ちゃんとお礼が言いたかったと、彼はどもりながらではあるが、微笑みと共に語りかけてくれた。
頬にさす、赤い色。
うわぁ。
花は、落ち着かない気持ちになった。
こ、この人、天然のヤバい人だわ、と思ったのだ。
家族の影響のせいか、彼は普通の日本人男子とは、微妙にずれた言葉を使うことが判明したのである。
もしも、さっきの言葉をどもらずに言われたならば、どれほどの女が勘違いして墜落していくことだろうか、と。
そして、これは学校では浮くはずだ、とも思った。
こんな言葉を向けられたら、女生徒は彼に突撃するだろうし、男子生徒にはやっかまれるだろう。
おそらく、初めて体育館裏で会った時も、女生徒に突撃されていたに違いないと花は確信した。
そんなことを、小さい時から繰り返していたら、対人恐怖症になってもおかしくはない。
「い、いいえ、両親を説得したのは、倉内先輩です。その子を、幸せにしてあげてください」
心温まるというより、心落ち着かない気分になるのは、彼の笑みのせいだろう。
ずっと距離を取っていた人が、距離を縮めたのがはっきり感じられるのだ。
タロと彼の違いは、言葉をしゃべることくらいだと思っていた花は、それが大きな間違いであることを思い知ることになる。
タロからの好意は、無条件で喜んで受け入れられるが、彼からの好意を受け取るには──気恥ずかしさでいっぱいになるのだから。