あの猫を幸せに出来る人になりたい
 倉内家は、一度必需品の買出しのために斉藤家を離れた。

 キャリーバッグや、猫用のトイレ、餌など、父親がパソコンで手作りした『初めて猫と暮らす人のために』という小冊子を片手に、いまごろホームセンターで、ああでもないこうでもないと悩んでいることだろう。

 それらが全部揃ったら、また引き取りに来るという。

 肩の荷が下りて、花は大きく伸びをした。

 気がつかない内に、随分緊張していたようだ。肩が物凄く凝っている。

「倉内さんに、何度もお礼を言われてしまったわよ」

 おやつでもどうと母に誘われ、台所で煎餅をかじっている時の話がこれだった。

「お礼って? 野良猫をもらってくれて、こっちも嬉しいのにね」

 ぽりぽりと米菓を噛み砕き、温かいお茶をいただく。

 やはり、煎餅にはほうじ茶が合うなあとか、花はのどかなことを考えていた。

「違うわよ。倉内さんの息子さん……楓くんだっけ? やる気を出させてくれて、ありがとうって」

 母の言葉に、花は傾けていた湯飲みの動きを止めた。

「綺麗な子って、母さん羨ましいとばっかり思ってたけど、難しいのねぇ。女に子に追い回されたり、変質者にさらわれそうになったり、小さい頃から大変だったみたいよ」

 娘の硬直に気づかないまま、言葉を続ける彼女の母は、窓の外を見ながら、はぁとため息をついた。

 うーん、綺麗っていうのは禁句なのかな。

 花も何度も羨んだ倉内楓の外見は、彼の人生にとって多くの被害を与えた張本人のようだ。

「猫をきっかけに、少しは人付き合いが出来るようになるかもって……花に、今後ともよろしくお願いしますって言ってたわよ」

 口に入れかけていた煎餅を持つ手を、花はまた止めた。

 彼の両親からすれば、息子を動かした原因のひとつが花だと思っているのだろう。

 確かに、それを全否定するわけではないが、あくまでも原動力は、子猫への愛だ。

「私は学年が違うから、あんまり付き合いはないと思うよ?」

 学年の違い、男女の違い、部活で一緒のわけでもなく、今後何らかの接触があるとも考えにくい。

 強いていうならば、予防接種などで猫を動物病院に連れてくる時くらいか。とは言っても、花はあまり病院の方には出入りしていないので、顔を合わせることもないだろう。

「そういえば、子猫もう一匹もらい手がつきそうよ」

「おおっ! やったね」

 ふと思い出した母の言葉により、倉内家の話題はそこで終わり、花は少しだけほっとしたのだった。


 子猫は、無事、夕方には倉内家へと引き取られて行った。


 ※


 月曜日。

 花は、ホームルームが終わった後、席を立ちかけて、またお尻を椅子に戻した。

 急いで家に帰りたいけど、急いで帰りたくない──そんな矛盾した気分だったのだ。

 今日は、タロのトライアル終了日。

 最終的に、いまいる家で飼い続けるかどうかの返事が、家に届けられるはずだ。

 もしも飼えないということになったら、家に帰った時、そこにタロがいるかもしれない。そんなタロと、目を合わせる勇気が、いまはまだ花にはなかった。

 うまくいっているらしいというのは、全て伝聞でしかない。これまでだって、ギリギリでトライアルから帰された動物は何匹もいた。

 人は、余り嫌なことを言いたがらない。だから、途中経過の報告では、良さげなことを曖昧に言っていても、最後のフタを開けるまで分からないのだ。

 一年という期間を、一緒にリハビリしてきた仲である花は、今日という日が、いままでで一番怖かった。

 帰ろうか、帰るまいか。

 帰らないという選択肢は、実質ないのだが、どうにも勇気が湧き上がらない。

 もし帰り着いた時、まだ連絡が来ていなかったら、またそこで一日千秋の思いで待ち続ける自分の姿が、容易に想像がついたからである。

 もやもやする気持ちは、教室に座っていても晴れるわけでもなく、花はうーうーと躾の悪い犬のように何度か唸った後、ようやくにして席から尻をひきはがした。

 そんな時。

 廊下が、少しざわめいた。

 放課後の、みなが部活や帰り道に向かう通路のため、元々ざわめいていたが、何というか、ひとつの統一されたざわめきに感じたのだ。特に、女子の。

 何だろう。

 花は、野次馬根性も兼ねて、カバンを掴んで席を離れた。

 どんな理由にせよ、彼女を動かしてくれるものは大歓迎だった。

 そんな謎の引力に、花は廊下へとひょっこりと顔を出す。

 あ。

 ざわめきの向こう。

 中央階段に向かうところに、男子生徒が壁を背に立っていたのだ。

 倉内楓だった。

 花は、また彼の横顔を見ることになる。

 通り過ぎる一年生たちと目を合わせないように視線を下げたまま、彼はそれでもそこに立っている。

 同学年の女子たちが、恥ずかしそうに前を駆け抜けたり、遠巻きに何人かずつで足を止めて噂している。

 それが、ざわめきの正体。

 花は、唇に手を当てて、少し考え込んだ。

 彼の目的が何であるか、真面目に考えようとしたのだが、真面目に考えてもよく分からなかった。

 ただ一つ分かるのは。

 彼は、『こんなこと』をする人ではない、ということ。

 学年の違う階に来るだけでも、結構注目を受ける。特に三階は、一年の教室しかないのだから、他の学年が来ることが少ないところだ。

 そこに、自分が来ればどうなるかくらい、彼は誰よりもよく分かっているだろうに。

 花は、唇に当てた手を頬に持って行き、軽く撫でた後、ゆっくりと歩き出した。

「倉内……先輩?」

 声をかけていいかどうか考えはしたが、無視していくのも憚(はば)られ、花はそっとその名を呼んだ。

 彼の目が。

 あっと、糸がついているように、すぅっと曲線を描きながら、花へと向けられる。

「花……さん」

 その頬が、ほころぶように小さい笑みを浮かべたのを、花はばっちりとその目に焼き付けてしまった。

 キャアアアアアア! と、どこかで女子の黄色い声があがったのは、聞こえないフリをしたが。

 わあ、すごい威力。

 逆に花の表情が強張ってしまいそうになるのを踏みとどまり、ゆっくりと歩みを進めた。

「猫の話ですか?」

 彼が自分に用があるとしたら、それくらいしか考えられない。花は、単刀直入に問いかけた。

 問題は。

 返事まで、少し待たなければならないということ。

 周囲の一年生の視線を受け続ける、という特典つきだ。

 もし、花に用があるのだと分かれば、すぐさま場所を変えたい──そう思いながら、彼女はいつもどおり彼の言葉を待つ。

「あ、うん。す、少し、話をしていいかな」

 どうやら、彼女に用事があるということで、ビンゴのようだ。

「分かりました。帰りながら、話しましょうか」

 早く、私をここから逃がして下さい。

 そんな気持ちを外に出さないように努めつつ、花は階段に向かって歩き出したのだった。

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