あなたが教えてくれた世界
視線を剃らし、足元を見つめながら、アルディスは口ごもる。
「ア、アルディスで良い、です……」
本能的な恐怖すら感じながら、どうにかそれだけ答える。
「……おい、アルディス困らせんな。というかお前は女との距離感が必要以上に近いんだよ」
会話に割り込んできたイグナスの存在に、ほっとした。
「……へーい」
さっと雰囲気を変えて不満そうに返事をするカルロからは、先ほどの不気味な迫力はない。
「もう鬱陶しいからどっか行け。役割集中しろ。」
カルロにしっしっと犬を追い払うような仕草をして、イグナスはずんずんと歩き出した。
置いていかれたらたまらないと、慌ててアルディスが追いかけると、イグナスはそれを察して少しだけ歩調を緩めてくれる。
着いた先は建物の裏にある水道で、このような場所が初めてのアルディスは恐る恐る一口水を飲んだ。予想以上にきんと冷たい。
イグナスを横目に見ると、豪快に顔を洗っていた。漆黒の髪から雫をしたらせている。
(……さっきの夢の男の子、イグナス、なのかな)
夢の中に出てきた漆黒が、目の前の彼のそれと重なり、内心でびくりとする。
先ほど見た少年……恐らく、貴族に尋常ならざる憎しみをたたえた、暗い瞳をした少年。
それは──この、イグナスなのだろうか。
……今までにも、このようなことはあった。
眠っている間に、他人の心の奥深くに侵入し、それを夢に見てしまうということは。
その人が、隠したかったり知られたくなかったりする。そんなこととはお構い無しに。
「……どうした?」
顔を上げたイグナスが、怪訝そうにこちらを見た。いつの間にか横目どころかじっと見つめていたらしい。
「あ……何でも、ない」
気まずくなって目を逸らしながら、アルディスは口ごもった。
(……こうして一緒にいるけれど、イグナスは私のこと、嫌いなのかな)
ずきり、と痛む心臓。
仕方ない、分かっていたこと。だって。
……私は、貴族の頂点に立つ者、皇女、だから。