夜桜と朧月
「………かえ、で………」


呻くように漏らした小声を、薫は聞き逃さなかった。


「……出ていいよ」


『出ろよ』でもなく、『出るな』でもなく、『出ていいよ』と促す声音は、この上なく優しかった。




覚悟を決めて、震える手で携帯を握り締め、通話状態にした。


居間から逃げだしたいのを我慢したのは、疚しさが何もないことを薫に信じて欲しかったから。


私は、その場に留まって通話を始めた。


『………真愛………?』


どのくらいの時間、この声を聞かなかったのだろう?


かつては耳に馴染んだこの声を、私は今、完全に拒否しようとしている。


「久しぶり、楓……」


会話が弾む事などない。


今更、何を話すのか?


『昨日、ようやく帰国したんだ』


「そっ…か…」


『アカと藤崎、結婚するんだってな』


「……そうみたいだね」



薫は、まるで素知らぬ振りをしながらも、身体中を緊張させて聞いている。


「……用件は、何……?」


早くこの電話を終わらせたくて、冷たい質問を投げ掛けた。


楓が私に、連絡を寄越したのは何故か?




『明日、お前に会いたい』


何時かは対峙しなければならなかったのだ。その結末に。



でも、明日は………。



「明日は、ごめん……。予定が」

「会って来いよ」



薫はすかさず、そう言った。


「いつでも、行けるだろ?」


共に一緒にいるならば、何時でも、何処にでも行ける。


そう言いたいのだ、彼は。


決着をつけて来いと、薫の目が訴えている。


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