たなごころ―[Berry's版(改)]
モノクロに映る景色。激しさを増す雨により視界が悪い中、浮かび上がったのは一色。目の覚めるような紅色だ。傘越しに見えた唇はその色で縁取られ、優雅な弧を描いていた。細く長い指先にも同じ色、紅色のマニキュアが踊る。舌を伸ばした蛇の様に、その色で彩られた指先は彼の背中で親しげに添う。
叩きつける雨のお陰で、水分をたっぷりと含んだ服は重さを増し、自身の体温を奪ってゆく。徐々に冷たくなってゆく身体。しかし、今、身体が震えているのは寒さからではないと、彼女はよく分かっていた。怒り、悲しさ、悔しさ……汚くドロリと濁ったあらゆる感情が溢れだし、自身で押さえることが出来なくなったからだ。爪が食い込むほど、拳にした手に力が入る。
今すぐに駆け寄り、相手の女を引き剥がし、思い付く限りの言葉で罵りたい。彼の左頬を力の限りの殴り付けたい。そう思っているのだが――実行に移せない。
足が動かないのだ。声が出せないのだ。瞬きすらままならないのだ。
徐々に小さくなって行くふたりの後ろ姿を、ただ視線を逸らさずに睨むことしか叶わない。雨なのか涙なのか。判断できない雫が、彼女の頬を途絶えることなく流れる。
猪俣 笑実《いのまた えみ》はこの時、心に決めた。
一生、紅いマニキュアと口紅はつけるものかと。