麗しの彼を押し倒すとき。



「お兄ちゃん!寝坊した!」


翌朝、洗面所で眠そうに歯を磨く柚羅を見て大声でそう告げた。

とりあえず制服に手を通して、呑気にうがいをしているお兄ちゃんの横に並ぶ。



「まだ8時じゃん」

「もう8時だよ!」


男と違って女は外へ出るのになにかと準備がいる。

鏡の中でぴょんと寝ぐせのついてしまった前髪を見ると溜息をついた。


何で二度寝したんだ私のバカ!

朝に弱いこの体質を恨みながら、ドライヤーで寝ぐせをどうにかしようと奮闘する。

起きた瞬間まだ夢なんじゃないかと思った。まどろんだ意識の中で、それはもう何度も時計を見直した。

けれど壁掛け時計も、枕横の目覚まし時計も、携帯のデジタル時計でさえしっかりと8時を示していた。

唯一の救いなのは家から学校まで10分で着くことだ。

もともと一人暮らしだったお兄ちゃんのマンションに住みついたため、あまり広いとは言えない部屋を走りまわる。

昨日怪我した右脚がまだ少し痛いけれど、そんなこと言ってられない。

1LDKしかないこの空間と、住んでる場所が一階という条件が今はありがたかった。



「行ってきます!」


必死で用意を済ませたからか、遅刻はしなくてすみそうだった。

鞄を持って昨日は腫れて入らなかったローファーに足を突っ込み、少しずれた黒のソックスを直すとドアノブに手をかける。

勢いよく外の世界へ飛び出した瞬間、早くも私の歩みは止まった。

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