麗しの彼を押し倒すとき。
わたわたしながら十円を財布に押し込んだ私に、彼は「え?じゃなくてお前に言ってんだよ、早く言えよ。このノロマ」実際に言葉にしないが、目だけで物を言う。…たぶん、そう思ってるに違いない。
脳内で勝手に膨らんでいく彼への想像は止まらない。
それも今朝の印象が強いのか、悪いイメージばかり。
「き、きりた……っわ!」
それでも意を決して答えようとした私の腕を掴むと、急に彼はそのまま大股で歩きだした。
「……」
「ちょ、ちょっと…」
何も言わないままズンズンと歩を進める彼の後ろ姿に、やっぱり今日は何かがおかしい。と何度目かも分からない言葉が頭に浮かんでは消えていく。
168センチと女の割に身長の高い私でも、足の長い彼の歩幅についていけず少し小走りになる。
何とかしてほしい、と教室の扉から出る瞬間後ろを振り返ると、波留くんは目を丸くして私達を見ているだけだった。
廊下に出ると教室の中が騒がしくなったのが分かった。
それだけでもう波留くんだけでなく、この人も何かしらこの学校で影響力を持っていることは聞かなくても分かる。
そりゃそうだ。久しぶりに息をするのも忘れるくらい、引き込まれる雰囲気を持つ人に出会った。
波留くんの友達?…みたいだったけど。
そもそも何で私の腕なんか掴んでんの、この人。
聞きたいことは山ほどあったけど、有無を言わせず私を引っ張っていく彼の態度に口を噤んだ。
綺麗な横顔を見つめながら、私はこの日、平穏な日常とさよならしたのだった。