黄昏に香る音色
阿部は、ニヤニヤ笑いながら、頷く。

「あの啓介がな…。昔は、どんないい女に、口説かれても、見向きもせずに…サックスのことしか考えてなかったやつが…あんなお嬢ちゃんに」

意外そうなサミーに、阿部がきく。

「なあ、サミー。あんなの目からみて、彼女はどうだい?」

サミーの顔が、エンジニアであり、プロデューサーでもあるプロの顔に変わる。

「歌は、申し分ない。自分の音も持っている。ただし、まだまだの音という…日本人特有の謙虚さが、この国で通用しない」

サミーの忠告をきき、阿部は安堵した。

「あの子のさっきの言葉は、謙虚じゃない。あの子の音楽のハードルが、異常に高いだけさ」

阿部は、タバコに火をつけた。

「あの子には、マイルスディビスが基本のレベルなんだよ」

「帝王がか?」

阿部は頷く。

「だから、あの子のまだまだは、謙虚じゃないのさ」

阿部は、タバコを吹かす。

その癖、俺や周りの演奏にすぐに感動する。

自分に厳しく、周りに甘いではなく…

自分に厳しく、周りのすべてを受け入れる。

(あの子はすごい子かもな)

阿部は、タバコを灰皿にねじ込むと、

もう一度スタジオに入った。

原田も武田も続く。

彼らには分かっていた。

啓介はもちろん、明日香も自分達をこえている。

演奏が上手いというレベルではなく、音楽に愛されている…

ほんの少しのミュージシャンであることを。

愛されていない者達は、せめて彼らの…少しでも力になることだけだ。

三人はただ…啓介と明日香の音を、

さらに際立てる演奏に、徹することを誓った。

かつて、恵子の為にしたように。

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