あの日まではただの可愛い女《ひと》。
あの日まではただの可愛い女《ひと》。
お昼時だというのに大好物のサンマに、盛大な溜息とともにソースをぶっかけてしまったのを鈴木桜は友人の山野アキに指摘されて気がついた。
「ホント笑えるわね、今日は」
「ううう。突っ込むなー」
苦笑いとともに友人に突っ込まれ頭を抱える。
「まだ月曜日よ? 週末に何かあったの?」
「思い出したくない…」
正確には金曜日の夜から土曜の昼にかけてだ。己の不徳の致すところで、筋肉触らせろーといって、4歳も年下の男子をお持ち帰りしたなどと、友人どころか誰にもばれたくない。
特にアキにばれた日にはきっと大笑いして、速効、10年来の上司の耳にも入るのは決定だ。そんなことにでもなった暁には、一生涯あのドS上司がネタとして使うことは間違いない。10年も子飼いの部下やってると、いろんなことがばれててやりにくいったらありゃしないのに、プラスしてだ。
しかも、家で疲れて眠りこんでしまい、起きたら日曜だったとか。
気を取り直して家事をこなす前に風呂に入ろうとして、体中に散った朱の痕に気がついたときの衝撃とか、思い出したくもない。
大分酔ってたことを心配して電話してくれた友達に「声枯れてるけど大丈夫?」とか言われたときの居た堪れなさと言ったら!!!
というか、なんとかあの夜を消し去ることはできないのか、せめて記憶から。
「私の記憶だけでもいいです」とか何かに祈ってみるも消えることはあるわけがない。 しかもまだ、痕は残ってるので、今夜も大失態を思い出させる羽目になるのは確定だ。
あーほんと。次回あの集まりに一体どういう顔して顔出せばいいんだろう…。月曜日に『これから10日ばかし出張です』というメールをもらった相手とは、当然アノコトについてはどうするか摺り合わせは出来ていない。大人同士って、しれっとこういう時ってするのかなぁー。みんなどういう風にしてるんだろう? まったくもって昔から恋愛には縁遠かった。
恋愛どころか男女関係からも遠かったので、今回のようにうっかりエッチしちゃって☆って場合、どういう風にみんな対応してるのとか耳にしたことないし。インターネットにこういう対策マニュアルとか載ってるんだろうか?
ぜひあとで検索せねばっ。
ということを頭の隅で考えながら、桜は、ソースでどぼどぼになっているサンマを何とかつつきつつ、昼食を終えた。
アキはそれをひたすら笑いながらメンチカツ定食をうまそうに食べている。
会話は社内の最新のゴシップに移っている。こういう話を仕入れるために社食ではなく、会社から少し離れた定食屋に来ている。アキは人事部所属なのでそういう話に聡い。もちろん桜の上司の方が情報スピードが速いが、レイヤーが違う情報も拾っておかなければならない。
以前、インターネットの部門に異動したときに情報というものの重要性ということを非常に痛感した。それは世の中に流れている情報だけでなく、組織の中の情報を拾い、つなげて正しい情報の方向性を見極めることも含まれる。
――気を引き締めよう、私!
なーんてことは思うものの、金曜日の夜のことに、どうしても思考が引っ張られてしまい、だーーーーっ!とか意味不明な雄叫びをあげたくなる。
赤くなったり青くなったりする桜のそんな様子をアキはにやにやと笑いながら見ていた。
なので、昼休憩終了後、手を振って別れた時に、うっかり一番伝えねばならない情報を桜に伝えそびれたことに気がついた。
「ま。まだ時間があるし、いっか」
アキはよろよろと歩いていく桜の後ろ姿を見ながら、エレベーターのボタンを押した。ただこの後、きれいさっぱり、伝えなければいけなかった件を忘れてしまうのだが。
「桜さん、隆《りゅう》さんがお呼びです」
メイクを少し直してから、席に戻ると、部下の松本が桜に伝えてきた。
桜の勤める会社は、世界でも指折りの企業に数えられる電機メーカー、カエデ電気。
その中で、開発部とマーケティング部の間を取り持ち、新しい商品だけでなくビジネスモデルも考える新規ビジネス開発局が仕事場だ。
大手企業ということで同姓の人間がかなりいる。大抵、「佐藤」「山田」なんて名字を持つものは下の名前呼ばわりだ。当然「鈴木」なんて名字なので、大抵の人は下の名前で呼ぶ。桜の上司も名字が鈴木なので、隆《りゅう》さんと呼んでいるが、正式な名前は「たかし」だ。なぜか「りゅう」と呼ばれている。
海外の開発部や取引先がいるから、呼びやすい形で定着したらしいのだが、確かに本人を見ると「たかし」というよりも、なんとなく組織からはみ出したような風貌が「りゅう」という呼び方に似合っている。
「隆さん、なんでしょうか?」
局長室を軽くノックをして入出する。
「おまえ、週末なんかやらかしたんだって?」
がくーーーっと膝が折れそうになる。
ア…アキのやつっ!報告早いにもほどがあるわーー!と5分前に別れた友に悪態を内心つく。ちゅかおまえら、過保護にもほどがっ。
彼らを心配させた過去のことが脳裏によぎり、ちょっとぎりぎりと歯をかみ締めた。
「そ…そんなことの為にお呼び出しですか?」
毛先の方だけカールさせた栗色のくせのない髪をバサッと後ろに流しながら、プライベートに口出すんじゃないわよっとばかりに言う。
セオリーのシンプルなダークスーツにマノロ・ブラニクのヒールという装いで、加えて170cm近い身長…そこそこの圧力は計算済みだ。
「おまえ。それ俺には効かないのにいい度胸だな。ヲイ」
「は?別に喧嘩とか売ってませんよ? お気に触ったのなら10年来の上長の仕込みをお責めクダサイ」
確かに180cmを超える高身長に、40手前のくせに緩みのない体つきの隆にはその態度は効かないだろう。ライオンの前で毛を逆立てる三毛猫くらいにしか思われてないのは桜も承知の上だ。
しかも、立ち上がって桜の前に近づいて見下ろしてきた。大人気ない。
だが、胸を張って、引いたら負けだとばかりに桜は言い放った。
でないと週末の失態をゲロさせられることになるのは必須だ。
にまにま笑いながら隆は「まぁいい」とつぶやく。
「それはどっかで聞き出すとして。用件だが、桜、来週1週間くらいNYにいってこないか?」
「は?」
――このくそ忙しいのになんで一週間も出張しにって何それ?
隆はその様子を苦笑気味に見る。たぶん、彼女が今考えていることが読み取れるのは数人だろう。それくらい、クールに見える。そもそも、今の外見的な演出は隆とアキが作り上げたといって過言はない。だから隆にははっきり、彼女の意図は読み取れた。実際平常の状況なら、彼女も隆が言わんとすることを情報をつき合わせた上で予測してくみ取ったであろう。つまり桜は現在、平静ではないということになる。
「いや。そろそろ、海外出向者の一時帰国の時期だから、ちょうどいいし行って来い」
桜は、はっとして隆を見た。海外に赴任している人間は、年に一度、研修と称して日本に一時帰国が許されている。そろそろその研修の時期だ。
――また気を遣わしちゃった…。
その感情も読み取ったのであろう。フラットな口調で隆が続ける。
「別に気を遣ってるつもりはない。NY開発の研究者達がそろそろ面白いことを思いついたみたいで、それのディスカッションに誰かにいってほしいと思ってる方がメインだ」
「で、あれば…、坂野ではいかがでしょう? そろそろそういう経験値を磨くべき時期ですし、若干手はあいてます。ややこしそうであれば、スカイプで私も参加することは可能です。出張は3日ほどでよいと思いますが」
――心配無用。
桜の言外に秘めた想いに隆は苦笑した。
「おまえがそういうなら、坂野にいってもらおうか。準備や質問すべき項目などは事前にお前が坂野にレクチャーして教えてやれ」
そういって、分厚い資料を桜に渡した。
「了解しました。状況はまとまり次第ご報告いたします」
この時点で隆がガラッと口調を変えて聞いてくる。
「本当にいいのか?」
「もう5年ですよ? では失礼します」
「桜――」
一瞬呼び止められて、振り返って10年来の上司を仰ぎ見た。
「たまには俺を困らせてみろよ」
桜は、にまっと隆を見て言った。
「そこまで言うなら隆さんが、火消しも出来ないくらいの問題を起こしてあげますが?」
隆の反応も見もしないで、さらりとした髪を翻して桜は退室した。パタンと閉まったドアを見ながら、隆はクツクツと笑った。
――絶対に二度とごめんです。
普段ならそう返ってくるところだなーと隆は思ったが、桜はにこやかにそう返した。
どういう精神的な変化なのかはわからないが、去年までの彼女にはなかった、しなやかさの片鱗を感じた。吹っ切れたのかどうか、乗り越えれたのかどうかはまだわからないが、去年と違うことがあるとすれば『週末の失態』という何かだ。
「これは絶対聞きださないと、な」
「ホント笑えるわね、今日は」
「ううう。突っ込むなー」
苦笑いとともに友人に突っ込まれ頭を抱える。
「まだ月曜日よ? 週末に何かあったの?」
「思い出したくない…」
正確には金曜日の夜から土曜の昼にかけてだ。己の不徳の致すところで、筋肉触らせろーといって、4歳も年下の男子をお持ち帰りしたなどと、友人どころか誰にもばれたくない。
特にアキにばれた日にはきっと大笑いして、速効、10年来の上司の耳にも入るのは決定だ。そんなことにでもなった暁には、一生涯あのドS上司がネタとして使うことは間違いない。10年も子飼いの部下やってると、いろんなことがばれててやりにくいったらありゃしないのに、プラスしてだ。
しかも、家で疲れて眠りこんでしまい、起きたら日曜だったとか。
気を取り直して家事をこなす前に風呂に入ろうとして、体中に散った朱の痕に気がついたときの衝撃とか、思い出したくもない。
大分酔ってたことを心配して電話してくれた友達に「声枯れてるけど大丈夫?」とか言われたときの居た堪れなさと言ったら!!!
というか、なんとかあの夜を消し去ることはできないのか、せめて記憶から。
「私の記憶だけでもいいです」とか何かに祈ってみるも消えることはあるわけがない。 しかもまだ、痕は残ってるので、今夜も大失態を思い出させる羽目になるのは確定だ。
あーほんと。次回あの集まりに一体どういう顔して顔出せばいいんだろう…。月曜日に『これから10日ばかし出張です』というメールをもらった相手とは、当然アノコトについてはどうするか摺り合わせは出来ていない。大人同士って、しれっとこういう時ってするのかなぁー。みんなどういう風にしてるんだろう? まったくもって昔から恋愛には縁遠かった。
恋愛どころか男女関係からも遠かったので、今回のようにうっかりエッチしちゃって☆って場合、どういう風にみんな対応してるのとか耳にしたことないし。インターネットにこういう対策マニュアルとか載ってるんだろうか?
ぜひあとで検索せねばっ。
ということを頭の隅で考えながら、桜は、ソースでどぼどぼになっているサンマを何とかつつきつつ、昼食を終えた。
アキはそれをひたすら笑いながらメンチカツ定食をうまそうに食べている。
会話は社内の最新のゴシップに移っている。こういう話を仕入れるために社食ではなく、会社から少し離れた定食屋に来ている。アキは人事部所属なのでそういう話に聡い。もちろん桜の上司の方が情報スピードが速いが、レイヤーが違う情報も拾っておかなければならない。
以前、インターネットの部門に異動したときに情報というものの重要性ということを非常に痛感した。それは世の中に流れている情報だけでなく、組織の中の情報を拾い、つなげて正しい情報の方向性を見極めることも含まれる。
――気を引き締めよう、私!
なーんてことは思うものの、金曜日の夜のことに、どうしても思考が引っ張られてしまい、だーーーーっ!とか意味不明な雄叫びをあげたくなる。
赤くなったり青くなったりする桜のそんな様子をアキはにやにやと笑いながら見ていた。
なので、昼休憩終了後、手を振って別れた時に、うっかり一番伝えねばならない情報を桜に伝えそびれたことに気がついた。
「ま。まだ時間があるし、いっか」
アキはよろよろと歩いていく桜の後ろ姿を見ながら、エレベーターのボタンを押した。ただこの後、きれいさっぱり、伝えなければいけなかった件を忘れてしまうのだが。
「桜さん、隆《りゅう》さんがお呼びです」
メイクを少し直してから、席に戻ると、部下の松本が桜に伝えてきた。
桜の勤める会社は、世界でも指折りの企業に数えられる電機メーカー、カエデ電気。
その中で、開発部とマーケティング部の間を取り持ち、新しい商品だけでなくビジネスモデルも考える新規ビジネス開発局が仕事場だ。
大手企業ということで同姓の人間がかなりいる。大抵、「佐藤」「山田」なんて名字を持つものは下の名前呼ばわりだ。当然「鈴木」なんて名字なので、大抵の人は下の名前で呼ぶ。桜の上司も名字が鈴木なので、隆《りゅう》さんと呼んでいるが、正式な名前は「たかし」だ。なぜか「りゅう」と呼ばれている。
海外の開発部や取引先がいるから、呼びやすい形で定着したらしいのだが、確かに本人を見ると「たかし」というよりも、なんとなく組織からはみ出したような風貌が「りゅう」という呼び方に似合っている。
「隆さん、なんでしょうか?」
局長室を軽くノックをして入出する。
「おまえ、週末なんかやらかしたんだって?」
がくーーーっと膝が折れそうになる。
ア…アキのやつっ!報告早いにもほどがあるわーー!と5分前に別れた友に悪態を内心つく。ちゅかおまえら、過保護にもほどがっ。
彼らを心配させた過去のことが脳裏によぎり、ちょっとぎりぎりと歯をかみ締めた。
「そ…そんなことの為にお呼び出しですか?」
毛先の方だけカールさせた栗色のくせのない髪をバサッと後ろに流しながら、プライベートに口出すんじゃないわよっとばかりに言う。
セオリーのシンプルなダークスーツにマノロ・ブラニクのヒールという装いで、加えて170cm近い身長…そこそこの圧力は計算済みだ。
「おまえ。それ俺には効かないのにいい度胸だな。ヲイ」
「は?別に喧嘩とか売ってませんよ? お気に触ったのなら10年来の上長の仕込みをお責めクダサイ」
確かに180cmを超える高身長に、40手前のくせに緩みのない体つきの隆にはその態度は効かないだろう。ライオンの前で毛を逆立てる三毛猫くらいにしか思われてないのは桜も承知の上だ。
しかも、立ち上がって桜の前に近づいて見下ろしてきた。大人気ない。
だが、胸を張って、引いたら負けだとばかりに桜は言い放った。
でないと週末の失態をゲロさせられることになるのは必須だ。
にまにま笑いながら隆は「まぁいい」とつぶやく。
「それはどっかで聞き出すとして。用件だが、桜、来週1週間くらいNYにいってこないか?」
「は?」
――このくそ忙しいのになんで一週間も出張しにって何それ?
隆はその様子を苦笑気味に見る。たぶん、彼女が今考えていることが読み取れるのは数人だろう。それくらい、クールに見える。そもそも、今の外見的な演出は隆とアキが作り上げたといって過言はない。だから隆にははっきり、彼女の意図は読み取れた。実際平常の状況なら、彼女も隆が言わんとすることを情報をつき合わせた上で予測してくみ取ったであろう。つまり桜は現在、平静ではないということになる。
「いや。そろそろ、海外出向者の一時帰国の時期だから、ちょうどいいし行って来い」
桜は、はっとして隆を見た。海外に赴任している人間は、年に一度、研修と称して日本に一時帰国が許されている。そろそろその研修の時期だ。
――また気を遣わしちゃった…。
その感情も読み取ったのであろう。フラットな口調で隆が続ける。
「別に気を遣ってるつもりはない。NY開発の研究者達がそろそろ面白いことを思いついたみたいで、それのディスカッションに誰かにいってほしいと思ってる方がメインだ」
「で、あれば…、坂野ではいかがでしょう? そろそろそういう経験値を磨くべき時期ですし、若干手はあいてます。ややこしそうであれば、スカイプで私も参加することは可能です。出張は3日ほどでよいと思いますが」
――心配無用。
桜の言外に秘めた想いに隆は苦笑した。
「おまえがそういうなら、坂野にいってもらおうか。準備や質問すべき項目などは事前にお前が坂野にレクチャーして教えてやれ」
そういって、分厚い資料を桜に渡した。
「了解しました。状況はまとまり次第ご報告いたします」
この時点で隆がガラッと口調を変えて聞いてくる。
「本当にいいのか?」
「もう5年ですよ? では失礼します」
「桜――」
一瞬呼び止められて、振り返って10年来の上司を仰ぎ見た。
「たまには俺を困らせてみろよ」
桜は、にまっと隆を見て言った。
「そこまで言うなら隆さんが、火消しも出来ないくらいの問題を起こしてあげますが?」
隆の反応も見もしないで、さらりとした髪を翻して桜は退室した。パタンと閉まったドアを見ながら、隆はクツクツと笑った。
――絶対に二度とごめんです。
普段ならそう返ってくるところだなーと隆は思ったが、桜はにこやかにそう返した。
どういう精神的な変化なのかはわからないが、去年までの彼女にはなかった、しなやかさの片鱗を感じた。吹っ切れたのかどうか、乗り越えれたのかどうかはまだわからないが、去年と違うことがあるとすれば『週末の失態』という何かだ。
「これは絶対聞きださないと、な」