あの日まではただの可愛い女《ひと》。
私達は寂しい回遊魚みたいなもの?
拍子抜けするくらい順調だった。
異動初日の朝、皆に隆《りゅう》が、志岐たちを紹介し、新しい課の新設の理由などを話をした。
和やかな雰囲気で、桜は志岐と今後の打ち合わせを行なった。
主に、坂野を現場担当とさせるつもりだったから、基本的に打ち合わせは3人以上だ。マーケティングデータの構築の仕方などを相談し、どういう情報をどういう形でまとめるのかなど、ごく当たり前の話をする。
坂野たちは隆から何らかの釘を刺されているらしく、志岐と二人きりで話をするような局面には立たされなかった。
ノー残業デーでもあるし、業務は初日としては和やかに終わった。
少し机を整理して、一人戸締りしてみんなより遅れて会社を出ようと桜はPCの電源を落とした。
「桜――」
誰もいないと思っていたオフィスで声が響いたのでビクッと振り返った。
「志、岐さん」
予想通りの男の姿に桜の体が震える。たぶん来るであろうとは読んではいたが、それでもびくりとした自分が悔しかった。
「帰ったんじゃ…?」
「君とちゃんと話をしないとって思って」
「えーっと…」
お互いの間にあった感情を抜きにすれば、3行くらいで全ての話は終わる気がする。桜は少しだけ柳眉を上げて志岐を見つめた。
「君が考えてそうなことはわかるけど」
「……」
「ただ、君とちゃんと向かい合わないとって、そう思ってるだけだ」
でないと、お互い先に進めない気がしないか?と聞いてきた。
桜は少しだけ、ため息をついた。彼が考えていることを聞き出すために、自分はこの場を作った。
なんとなく本能的に避けてしまいそうになるのは、単に相手を信用するにはまず材料が足りなさ過ぎるからだ。仕事上で、準備を整えずに何かをするということを桜はあまりしない。だから不安になる。
彼とは隆の下でビジネスを成功させないといけない仲だ。
彼がアノコトをどう考えているかというのを、知っておくべきだろう。そう思ってわざと隙を見せたわけだが…。
ただ、気持ちが悲鳴を上げようとするのもどこかで感じていた。
「志岐さんは、どうされたいんです?」
「君とちゃんと話したい。前のようにできれば忌憚ない意見を話し合える仲間になりたいと思っているよ」
「……」
本心かどうかがわからない志岐の言葉に、やはり、くるっと回れ右して帰りたい。だが、このまま逃げ回るのも限界だと、そしてなにより、逃げるのは性分に合わないと桜は覚悟を決めた。
「で。どうされますか? まさか警備員が来るまでここで、にらめっことかじゃないですよね?」
「とりあえず、ノー残業デーだし、僕の異動初日でもあるし、親睦を兼ねて飲みに行くって言うのはどうだろう?」
志岐が少し肩をすくめて提案した。
中国から帰ってきたばかりで店を知らないという志岐に言われて、地元ではないがテリトリーである恵比寿のバーで飲むことした。
「前は焼酎一辺倒だったのに、こういう店にもくるようになったんだね」
志岐はものめずらしげに、辺りを見回した。
そこそこ人数の入る場所なので、たまにオンラインゲームの仲間たちに連れてこられてただけの店ではあったが、そういえば志岐とは焼酎しか飲んだことがなかったなと、桜は思い起こした。
「いえ。前から何でも飲んではいるんでけど、志岐さんとは焼酎が多かったんですね」
「ふーん。付き合ってるやつの趣味とかじゃないんだね」
なぜいきなりそんなこと?と思いつつ、素直に答えた。
「…。相変わらず仕事が忙しいですし、そんな暇は…」
まぁ彼氏ではないにしても、甘えてセックスする相手はいますけどね、とか言ったらこの人はどういう顔をするんだろう? とは、桜はちらりと考えたが、そういう弱点をさらすようなことを言っていい相手ではない。それに、葵のことを誰が相手だろうとネタにするのはいやだ。…そう思った自分に少しギクリとした。
きっとこのなんとも盛り上がらない奥歯に何かが挟まったような会話がこういうことを考えさせるのだ。自分が何のカードも持っていないのはわかっている。向こうがどういうカードを切ってくるのかもわからない。とはいえ、搦め手というのも自分の性分には合わない。
――となるとこういう場合はガツンとやる以外はない。
結局私って最後はざっくりやっちゃうんだよね、と内心思って、桜は微笑った。
異動初日の朝、皆に隆《りゅう》が、志岐たちを紹介し、新しい課の新設の理由などを話をした。
和やかな雰囲気で、桜は志岐と今後の打ち合わせを行なった。
主に、坂野を現場担当とさせるつもりだったから、基本的に打ち合わせは3人以上だ。マーケティングデータの構築の仕方などを相談し、どういう情報をどういう形でまとめるのかなど、ごく当たり前の話をする。
坂野たちは隆から何らかの釘を刺されているらしく、志岐と二人きりで話をするような局面には立たされなかった。
ノー残業デーでもあるし、業務は初日としては和やかに終わった。
少し机を整理して、一人戸締りしてみんなより遅れて会社を出ようと桜はPCの電源を落とした。
「桜――」
誰もいないと思っていたオフィスで声が響いたのでビクッと振り返った。
「志、岐さん」
予想通りの男の姿に桜の体が震える。たぶん来るであろうとは読んではいたが、それでもびくりとした自分が悔しかった。
「帰ったんじゃ…?」
「君とちゃんと話をしないとって思って」
「えーっと…」
お互いの間にあった感情を抜きにすれば、3行くらいで全ての話は終わる気がする。桜は少しだけ柳眉を上げて志岐を見つめた。
「君が考えてそうなことはわかるけど」
「……」
「ただ、君とちゃんと向かい合わないとって、そう思ってるだけだ」
でないと、お互い先に進めない気がしないか?と聞いてきた。
桜は少しだけ、ため息をついた。彼が考えていることを聞き出すために、自分はこの場を作った。
なんとなく本能的に避けてしまいそうになるのは、単に相手を信用するにはまず材料が足りなさ過ぎるからだ。仕事上で、準備を整えずに何かをするということを桜はあまりしない。だから不安になる。
彼とは隆の下でビジネスを成功させないといけない仲だ。
彼がアノコトをどう考えているかというのを、知っておくべきだろう。そう思ってわざと隙を見せたわけだが…。
ただ、気持ちが悲鳴を上げようとするのもどこかで感じていた。
「志岐さんは、どうされたいんです?」
「君とちゃんと話したい。前のようにできれば忌憚ない意見を話し合える仲間になりたいと思っているよ」
「……」
本心かどうかがわからない志岐の言葉に、やはり、くるっと回れ右して帰りたい。だが、このまま逃げ回るのも限界だと、そしてなにより、逃げるのは性分に合わないと桜は覚悟を決めた。
「で。どうされますか? まさか警備員が来るまでここで、にらめっことかじゃないですよね?」
「とりあえず、ノー残業デーだし、僕の異動初日でもあるし、親睦を兼ねて飲みに行くって言うのはどうだろう?」
志岐が少し肩をすくめて提案した。
中国から帰ってきたばかりで店を知らないという志岐に言われて、地元ではないがテリトリーである恵比寿のバーで飲むことした。
「前は焼酎一辺倒だったのに、こういう店にもくるようになったんだね」
志岐はものめずらしげに、辺りを見回した。
そこそこ人数の入る場所なので、たまにオンラインゲームの仲間たちに連れてこられてただけの店ではあったが、そういえば志岐とは焼酎しか飲んだことがなかったなと、桜は思い起こした。
「いえ。前から何でも飲んではいるんでけど、志岐さんとは焼酎が多かったんですね」
「ふーん。付き合ってるやつの趣味とかじゃないんだね」
なぜいきなりそんなこと?と思いつつ、素直に答えた。
「…。相変わらず仕事が忙しいですし、そんな暇は…」
まぁ彼氏ではないにしても、甘えてセックスする相手はいますけどね、とか言ったらこの人はどういう顔をするんだろう? とは、桜はちらりと考えたが、そういう弱点をさらすようなことを言っていい相手ではない。それに、葵のことを誰が相手だろうとネタにするのはいやだ。…そう思った自分に少しギクリとした。
きっとこのなんとも盛り上がらない奥歯に何かが挟まったような会話がこういうことを考えさせるのだ。自分が何のカードも持っていないのはわかっている。向こうがどういうカードを切ってくるのかもわからない。とはいえ、搦め手というのも自分の性分には合わない。
――となるとこういう場合はガツンとやる以外はない。
結局私って最後はざっくりやっちゃうんだよね、と内心思って、桜は微笑った。