あの日まではただの可愛い女《ひと》。
 桜はマティーニのグラスの曲線を指で撫でつつ、興味なさげに言った。

「志岐さん、それで今回はうちのへたれ上司をどうやっていじめる気ですか?」
「ぶっ…」

 飲みかけていたハイボールを志岐は噴きそうになって、苦笑して見つめた。桜はこの5年間で磨きをかけた強気の笑みで志岐を見返した。

「へたれって、隆《りゅう》さんのこと?」
「それ以外いませんけど」
「へたれとは程遠い人だと思うけどね」

 ああ。この人の目にはやはりそういう風に映るのか、と桜は志岐との感じ方の違いの遠さにやはりなじめないものを感じた。確かに隆は強い…だが、一皮その鎧の内に入れば、とても柔らかい部分がある。
 だから5年前、桜は隆を守るために志岐とぶつかることになった。
 今もその図式は変わらないのだろうか? 変えれないのだろうか?

「それは、志岐さんの認識の違いです。隆さんは、結構弱いんですよ。だから5年前、あなたが私を傷つけたと思って、怒ったんです」
「簡単に人を中国に飛ばせる力を持った人をへたれとは思わないよ、僕は」
「あの時、も…、言ったはずです」

 桜は、5年前の件を思い出して手先が冷たくなるのを感じたが続けた。

「隆さんは志岐さんのこと気に入ってたんですよ? だから怒りも深かった」
「――気に入ってたかもしれないが、結局君を選んだよね?」

 選ぶ選ばないじゃない、そう訴えても理解はされないだろう、確かに隆は桜と志岐の間に介入してきて、結果として志岐は異国に流された…。桜はため息をついた。自分でも理解できたというのになぜ志岐はいまだに理解《わか》らないんだろうと素直に思ってしまった。
 志岐の眉間にしわがよった。剣呑な光が瞳に宿り始める。

「君にあのときの僕のじれるような気持ちはわからないと思うけど――」
「……。だからって」
「そうだね。だからってって桜が言うこともわかる。あのときの僕は、表面的な出世を望んでたから」
「……」
「君に、特にあのときの君には僕の敗北感のようなものはわからないだろう。なんていったって、恵まれてたよね。隆さんの直部下で、入社当時から教育をほどこされて、純粋に仕事を楽しむことができた。だから――、だから嫉妬したし、君を壊すしかなかった」
「――っ!」
「すまない。あれからいろいろ僕も考えた。君はああいう形でしか隆さんを守れないって思ったから、僕の手の内に入ってきたんだよね」

 どうやって、この気持ちの溝のようなものを埋めればいいんだろう。
 志岐も隆も桜も、会社の製品を愛していて、仕事に身を捧げているといってもおかしくないのになぜか埋まらない。5年前に感じたジレンマがじわじわと戻ってくるような気配を桜は感じた。

 ――こんなことで、気が、済むなら、どうぞ。

 自分が言った言葉を思い出した。たしかに5年前の桜は傲慢で、独りよがりな罰を志岐に与えてしまったようなものだ。
 それについてはただただ――認めるしかない。
 認めないと先には進めないだろうと、桜は思って志岐に対して謝った。

「すいません…。私も志岐さんを傷つけましたね」

 顔を伏せていると、志岐に指をとられた。反射的にひっと小さな悲鳴が漏れてしまう。
「――っ」
「ふ。そんなに青くならなくても取って喰いはしない」

 そんなことは考えていません、とか言おうとするが、舌が張り付いたように何もいえなくて、志岐を見つめることしかできない。

「ずいぶん痩せたって聞いたが…」
「も、もう戻りましたよ」
「あれからたまに見かける君の姿がどんどん小さくなってって、ちょっと心配だった」
「……」
「体は?」
「ご心配には及びません。もう5年前の出来事ですし」

 手を志岐の手から引っこ抜こうとするが、手首ごと押さえられているので、自然に抜くことができなかった。こんなところでみっともない真似ができないので、困惑する。
 そんな桜の動揺をわかってか、志岐が桜に目線を合わせる。

「桜――」

 手に目線を落としつつ、志岐が言った。
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