あの日まではただの可愛い女《ひと》。
「でも、藤間君は、君よりきっと年下だし、彼は彼で自分の生活を大事にするタイプじゃないか? きっと君とは合わないよ」
「それはこの件には関わりのあることじゃないです」
「酒の趣味の合わない僕より彼のほうが長続きするとでも?」
堂々巡りをする問答のような会話に思わず苦笑する。
どうだろ、長続きとか、合う合わないとか考えたこともなかったな、と桜は改めて思う。葵は突然、自分の人生にいきなり彩《いろどり》を持って存在を主張してきた。それまではただの、たまに会う友人の一人でしかなかった。一体、葵って何なんだろう? 自分にとって、甘えを許してくれる友人以外の何かがあるんだろうか。そう桜はふと思い、ゆっくり考えてみようというリストに脳内で書き込んだ。
「何度も言いますが、志岐さんとお付き合いするしないに、ほかの要素は関係ありません。酒の趣味が合わない、だから付き合えない。以上それだけです」
「では、あの夜のことは?」
あの夜、志岐に抱かれたのは確かに自分だ。その事実がある以上、自分は桜にとって男ではあるんじゃないか?と志岐が主張する。
「あれは――。終わったことです」
桜はばっさりと切った。少しも顔に朱がのぼらないし、今までの桜であれば言えなかったであろう。つい最近まで、志岐と会うことを避けていたのは、どこか彼の男の部分を意識して、恐れていたことであったことを悟る。でも今は何も感じない。
一体何が働いたんだろうか? 少しずついろんな人―主に葵だが―に当時のことを語ることで、何かが浄化していったとしか言いようがない。
『人に話すこと』というのは時として、傷を癒すものなのかもしれない…そう桜はふと思った。今、この人にあれほど感じていた恐怖をほとんど感じない。苦い自分の失敗への後悔は相変わらず、奥底に鎮座しているが。
「もしかすると、ある時点までなら、志岐さんを男の人として意識してた部分があったかもしれません。でも…」
「今はそうじゃない――そういうこと?」
「――そうですね」
その言葉が志岐の中に浸み込むのを待つように桜は黙った。
志岐が、それを吟味して、顔を上げて片方の眉毛を上げる。
「それで? 僕が引き下がるとでも?」
「私は志岐さんという人が惜しい。隆《りゅう》さんのことを理解してくれていて、仕事に熱意のある志岐さんという人が」
桜は畳み掛ける。男としての志岐は要らないが、同志としての志岐を惜しむ、と。
「私たち、一緒にはやって行けませんか? 隆さんの部下として」
「桜は、まさか、それを言うために会議室に僕をつれてきたのか?」
「そうですね。というわけで、お互いの認識を共有できたのであればこれから、プレゼンでもしようかなって思ってまして」
「は?」
桜はにっこりと笑って、会議室に持ち込んでいたPCをプロジェクターにつなげた。
「隆さんの忠実なる僕《しもべ》である私は、更なる犠牲者という名の同僚を増やすべく、志岐さんのキャリアと隆さんの理想の折り合い点の共有と、今後の組織運営に関して、プレゼンをして、志岐さんを本気でちゃんと口説こうかと。私たち、仕事は大好きだし、方向性も共有するものもあるって志岐さん言ってましたよね」
桜は、坂野いわく、きれいな微笑と称する笑顔を向けて、志岐になおも畳み掛けた。
「まずは、私が志岐さんを男として意識できない点とお付き合いすると生じるであろうメリットデメリットをおさらいで簡単にお話しますね。で、その上で、隆さんの部下として二人でやっていくことで生じる個人的なメリットデメリットと、カエデの組織としてどういうメリットがあるかなどをお話したいと思うんです」
プレゼンテーションとその検討は1時間にわたった。
終わった後、お互いの腹に一物を抱えてはいるがという留意点はあるものの、合意点を見つけることができたと桜は思った。なんといっても志岐は心の底から隆に憧れている。だからこそ、彼の部下として、派閥の制裁をうけないよう、隆の部下でありながらも、社内政治的にもダメージが少ないであろう今後の目標とマイルストーンについてプレゼンした。
志岐は隆の中で大事な人間になれればいいという部分が奥底にあるのがわかっていたから使えた手である。だから、志岐の方向性を話をして協力してやればいい。桜に志岐が求めた役割はその点だということを今回見抜いた。
「告白のお断りの返答に、プレゼンされたのは初めてだよ」
そう、志岐はあきれたように桜にこぼした。
「私らしいと思いませんか?」
相手の目に自分に対する昏い執着が鳴りを潜めたのを確認して桜は言った。
「君は面白いね。――桜」
片づけをしていたために反応が遅れた。肘をつかまれて抱き寄せられて、キスを落とされていた。唇が合わさるだけの軽く乾いたキスが数瞬。
「やっぱり改めて君を口説こうとおもう」
志岐は笑って言った。桜はちょっとびっくりしたが、それが彼が譲歩して、何を取るかの合意ができた瞬間だと思った。やっとの合意なので、下手に志岐を引き寄せる真似をしたくなかった。
だから正直に言うことにした。
「今のキス、何も感じませんでしたけど?」
「でも、また口説くから。君以上のビジネスパートナーはたぶんいない」
「は?」
「藤間君とは酒の趣味は合うのかもしれないが、仕事は僕の方が相性がいい。そういうことさ」
そういって、あっけに取られて抵抗できない桜をぎゅっと抱きしめてから、手をひらひらと振って志岐は会議室を出て行った。まさか志岐の言葉が素直な言葉だということに思えず、もうここまで来ると嫌がらせに近いな、いい加減断ってんだから絡まないでよ、と桜は思った。
後日、この話を桜から聞いたアキは『プレゼンテーションで告白お断りとか。さすが恋愛中枢破壊された女…』とため息をついたが。
「それはこの件には関わりのあることじゃないです」
「酒の趣味の合わない僕より彼のほうが長続きするとでも?」
堂々巡りをする問答のような会話に思わず苦笑する。
どうだろ、長続きとか、合う合わないとか考えたこともなかったな、と桜は改めて思う。葵は突然、自分の人生にいきなり彩《いろどり》を持って存在を主張してきた。それまではただの、たまに会う友人の一人でしかなかった。一体、葵って何なんだろう? 自分にとって、甘えを許してくれる友人以外の何かがあるんだろうか。そう桜はふと思い、ゆっくり考えてみようというリストに脳内で書き込んだ。
「何度も言いますが、志岐さんとお付き合いするしないに、ほかの要素は関係ありません。酒の趣味が合わない、だから付き合えない。以上それだけです」
「では、あの夜のことは?」
あの夜、志岐に抱かれたのは確かに自分だ。その事実がある以上、自分は桜にとって男ではあるんじゃないか?と志岐が主張する。
「あれは――。終わったことです」
桜はばっさりと切った。少しも顔に朱がのぼらないし、今までの桜であれば言えなかったであろう。つい最近まで、志岐と会うことを避けていたのは、どこか彼の男の部分を意識して、恐れていたことであったことを悟る。でも今は何も感じない。
一体何が働いたんだろうか? 少しずついろんな人―主に葵だが―に当時のことを語ることで、何かが浄化していったとしか言いようがない。
『人に話すこと』というのは時として、傷を癒すものなのかもしれない…そう桜はふと思った。今、この人にあれほど感じていた恐怖をほとんど感じない。苦い自分の失敗への後悔は相変わらず、奥底に鎮座しているが。
「もしかすると、ある時点までなら、志岐さんを男の人として意識してた部分があったかもしれません。でも…」
「今はそうじゃない――そういうこと?」
「――そうですね」
その言葉が志岐の中に浸み込むのを待つように桜は黙った。
志岐が、それを吟味して、顔を上げて片方の眉毛を上げる。
「それで? 僕が引き下がるとでも?」
「私は志岐さんという人が惜しい。隆《りゅう》さんのことを理解してくれていて、仕事に熱意のある志岐さんという人が」
桜は畳み掛ける。男としての志岐は要らないが、同志としての志岐を惜しむ、と。
「私たち、一緒にはやって行けませんか? 隆さんの部下として」
「桜は、まさか、それを言うために会議室に僕をつれてきたのか?」
「そうですね。というわけで、お互いの認識を共有できたのであればこれから、プレゼンでもしようかなって思ってまして」
「は?」
桜はにっこりと笑って、会議室に持ち込んでいたPCをプロジェクターにつなげた。
「隆さんの忠実なる僕《しもべ》である私は、更なる犠牲者という名の同僚を増やすべく、志岐さんのキャリアと隆さんの理想の折り合い点の共有と、今後の組織運営に関して、プレゼンをして、志岐さんを本気でちゃんと口説こうかと。私たち、仕事は大好きだし、方向性も共有するものもあるって志岐さん言ってましたよね」
桜は、坂野いわく、きれいな微笑と称する笑顔を向けて、志岐になおも畳み掛けた。
「まずは、私が志岐さんを男として意識できない点とお付き合いすると生じるであろうメリットデメリットをおさらいで簡単にお話しますね。で、その上で、隆さんの部下として二人でやっていくことで生じる個人的なメリットデメリットと、カエデの組織としてどういうメリットがあるかなどをお話したいと思うんです」
プレゼンテーションとその検討は1時間にわたった。
終わった後、お互いの腹に一物を抱えてはいるがという留意点はあるものの、合意点を見つけることができたと桜は思った。なんといっても志岐は心の底から隆に憧れている。だからこそ、彼の部下として、派閥の制裁をうけないよう、隆の部下でありながらも、社内政治的にもダメージが少ないであろう今後の目標とマイルストーンについてプレゼンした。
志岐は隆の中で大事な人間になれればいいという部分が奥底にあるのがわかっていたから使えた手である。だから、志岐の方向性を話をして協力してやればいい。桜に志岐が求めた役割はその点だということを今回見抜いた。
「告白のお断りの返答に、プレゼンされたのは初めてだよ」
そう、志岐はあきれたように桜にこぼした。
「私らしいと思いませんか?」
相手の目に自分に対する昏い執着が鳴りを潜めたのを確認して桜は言った。
「君は面白いね。――桜」
片づけをしていたために反応が遅れた。肘をつかまれて抱き寄せられて、キスを落とされていた。唇が合わさるだけの軽く乾いたキスが数瞬。
「やっぱり改めて君を口説こうとおもう」
志岐は笑って言った。桜はちょっとびっくりしたが、それが彼が譲歩して、何を取るかの合意ができた瞬間だと思った。やっとの合意なので、下手に志岐を引き寄せる真似をしたくなかった。
だから正直に言うことにした。
「今のキス、何も感じませんでしたけど?」
「でも、また口説くから。君以上のビジネスパートナーはたぶんいない」
「は?」
「藤間君とは酒の趣味は合うのかもしれないが、仕事は僕の方が相性がいい。そういうことさ」
そういって、あっけに取られて抵抗できない桜をぎゅっと抱きしめてから、手をひらひらと振って志岐は会議室を出て行った。まさか志岐の言葉が素直な言葉だということに思えず、もうここまで来ると嫌がらせに近いな、いい加減断ってんだから絡まないでよ、と桜は思った。
後日、この話を桜から聞いたアキは『プレゼンテーションで告白お断りとか。さすが恋愛中枢破壊された女…』とため息をついたが。