あの日まではただの可愛い女《ひと》。
「ううううぅぅー。坂野のバカヤロー」

 そんな会話をした翌週の水曜日、真っ黒なフロアでペシペシとパソコンのキーボードを叩きつつ、桜は泣いた。

「毎週水曜日は、ノー残(業)デーだろうよ! 何でこの日にスカイプ会議設定するんだー! 何の罰ゲームだよ、ちーきーしょー」

 『時差的に大丈夫かと勘違いしてました、あっはー』とか言ってきた、能天気な部下を思い浮かべて、一応小声でののしった。一体どういう勘違いだよ。NYも水曜だろうが。何とか総務に頭を下げて、絶対残業不可のこの日の22時半過ぎた今もまだ会社にいたりする。あんにゃろ、NY土産しょぼかったらコロス! 確か5年目とかだから28だよな~。もうチョイしっかりしろ! 私が知ってる28歳はもっと……、とある人物を思い浮かべて真っ赤になる。

 ――指、長かったなぁー。骨太な手の甲でなでられると……。

 思わず、膝頭をきつく撚《よ》り合わすように姿勢を正して座りなおしてしまった。

 ――はっ!
 やっとヤツにつけられた赤い痕が消えたのに、何で思い出すのよ私っ。
 てか、あれは向こうからしたら絶対不本意! 事故以外の何ものでもない。
 賞味期限切れの女に持ち帰られちゃったー。一発抜けたし、まいっか、みたいな感じだよね。

 ぺしぺしと額をたたいてメール処理とかをしつつ、スカイプをアップしておく。普段はカメラを使ってないのでうまく映るかなぁ、と自分のノートPCで別アカを立ち上げて調整を行なう。
 別のフロアや部署でもいくつかは稼動しているが、桜のいるフロアは、ぽつんと桜のみがいるだけだ。あー、早く会議始まんないかなぁ~。ちゅか、坂野、早めにセッティングして私と雑談するとかそういう気遣いはないのか…。もうこんな暗がりに一人ってイヤスギルっとか、ぼーっと考えていたので、次の瞬間、桜は飛び上がった。

「あれ? 誰かいるんですか?」

 耳に響くやわらかなバリトンの声が耳に届いて、「はいぃぃ!」とザッと椅子から立ち上がった。入り口に背の高い男が一人立っていた。

「もしかして? ―― 桜?」

 暗がりから桜の立っている場所の近くにその人物が歩いてくる。少し光があたりだし、相手の顔が徐々に見えてくる。

 桜はその顔を見て、――青ざめた……。


「志岐、さん」

 にっこりと笑顔を浮かべて相手が近づいてくる。思わず2歩ほど後ずさり、自分の机にドンとぶつかった。すらりとした肢体に、自信が伴ったことで裏打ちさえれている整った顔立ち。赴任先でも数々の結果をだしている男の顔を桜は見つめた。

「5年…ぶりかな。ひさしぶり」
「ご、無沙汰しております」
「ふっ。ずいぶん他人行儀だ」

 いやむしろ他人で! 人生交差しない感じで、お願いします! とか喉から飛び出しそうになったが、じっと我慢をして平静を装った。彼との間に横たわるものを直視したくない。

「今回の研修で一時帰国されたんですね」
「そうそう。あと…会社から呼び出されてね。そっちの用もあるんだ」

 にこやかに志岐は桜を見やって、手を伸ばしてきた。
 志岐が、桜の髪を一房手にとってさらりとした感触を楽しむようにもてあそぶ。
 そんな親密な態度が、桜に5年前のことを思い起こさせた。

「相変わらず…、というか、さらにきれいになったね」
「ご冗談を。志岐さんこそ、武勇伝は日本にも聞こえてきてますよ」

 なぜこんな親しげなしぐさを? と頭の中は大混乱だが、髪をさり気に志岐の手から取り返しつつ、冷静に見えるように勤めた。

「気にしてくれてたのか、うれしいな」

 そんなことを言いつつ、薄い茶色の髪の間で細めた目が光る。非常に柔らかな雰囲気――だが内心非常に激しいものを秘めている人だということを知っていた。5年前、桜はこの柔らかな物腰の人物に、自分の譲れない何かのために身を投げ打った。いや、それは一方的なものではなく、お互いが結局未熟で傷を付け合ったというのが正解だろう。
 ただ自分の中で、5年前の傷ついた記憶が悲鳴をあげそうになっているだけだ。被害者意識はなはだしい…、彼を最終的に追い込んで煽ったのは自分であろうと、自分自身を揶揄した。
 彼は実際、有能であった。同じプロジェクトを推進していたときに、仕事のしやすさはかなり上等な部類であった。そこそこ性格もいいし、容姿もかなりいい部類なので、多分もてるのであろう。仕事を一緒にしていたとき、周りの女子たちにうらやましがしがられた。

 あの時のことは、いまだ桜の中では整理をきっちりつけていない、つけられない項目だ。それどころか、隆にも、アキにも話すことが出来ない。
 言えば彼らも苦しむし、なんといっても自分の醜さに気がつかれてしまうのが怖い。
 だから言わなかった。
 ただ彼が何か関係して桜自身が変節したことだけ、彼らが感じ取っているだけでしかない。
 あれは自分の中で、女という価値を意識した、させられた瞬間だった。
 以来、自分の女の価値を考えずには世の中と向き合えなくなっていた。
 経験がいままでない分、その価値の測り方が正しいか正しくないか、過分か不足かがわからず、それが桜を苦しめる。

「興味を持ってるんじゃなくて、耳に入ってくるひとつの情報でしかありません」

 そう、ぱっきりきっぱり言う。5年前の出来事で自分たち二人は決定的に袂を別ったはずだ。志岐が軽く目を見張る。

「僕は…」
「部外者が、こんなところで何をやっている?」
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