あの日まではただの可愛い女《ひと》。
 ――あー。なんとか片付いたかも。

 少しすがすがしい気持ちで、自分の部屋へとまだ日付変更線を越える前に戻る。
 結局、志岐と話をつけた後、その間に積みあがった仕事を片付けての帰宅である。
 少し冬の気配がする風が気持ちいい。
 ただ、その気持ちよさが、もう一つ残っている問題を思い出させた。

 ――葵に会わなきゃ。今日こそ、疲れてても、着信拒否解除の仕方探そう。

 志岐のことを話すことではなく、どちらかというと自分の気持ちの醜さに向き合うということに心が震えた。着信拒否の仕方がわからないというのは、嘘ではないが、ある意味逃げだったのは自分でもわかってる。連絡が取れるようになるのが怖かった。葵に会ったら、志岐のことを聞かれる可能性があることが怖くて仕方がなかった。志岐のことに触れていない手紙をもらって、寂しくて仕方がなかったのに、逆に聞かれても怖いって思う自分の勝手さに落ち込む。
 さらに今は、自分の気持ちに蓋をして、全力で久々にプレゼンをしたという疲れとあいまって、体が重かった。
 部屋に戻って、郵便物をテーブルにポイッと置いてから、普段は特別なことがないと飲まないラフロイグの壜を取り出し、ワンショットだけついであおる。強くて潮の香りのするようなアルコールを口の中で転がしながら、郵便物を仕分けた。

 ――あっ…!

 白い、味も素っ気もない封筒を発見して手が震える。『はさみ、はさみ』と口の中でつぶやきながらはさみを探すが、見当たらず、焦れて、もどかしくて手で破く。少しおおらかな雰囲気のする葵の文字。もどかしくてもどかしくて、ざっくり内容を確認して、桜は手紙を握り締めて、再び靴を履いて外に出て走り出した。

 あの失態の夜の後、葵に呼び出された深夜まで開いているビストロのドアを開けると、葵が文庫本を開いて読みつつ、ビールを飲んでいた。どうしていいか、そういえばこの前ばったり会ったときのことや着信拒否のことなどがいろいろよぎり、声がかけられない。しかも、慌てて走ってきたので、髪はぼさぼさだし、メイクもはげてるし、靴は走りやすいようぺったん靴だし、せめて葵が特に執着するガーターストッキングの状態くらいは…と思ったが、走ったせいで、ずれまくっている。ホントいろいろヨレヨレだ。
 逃げたい、やっぱり帰ろうと心が萎えそうになった。
 ただ、いらっしゃいませ、という店員の声で葵がこっちを見るまでの数瞬のことであったが。

 葵が顔を上げた。回れ右をして逃げ出そうと思ってたのに、桜はよろよろとそのまま歩き出してしまっていた。葵がうれしそうに、歩いてきて、そんな桜を支える。

「桜さん――」

 低い声が甘く、桜の名前を呼ぶ。もうそれだけで腰が砕けそうになった。次に来た感覚は大きな安堵感のような強烈なうれしさ。葵の声ってこんな破壊力あったっけ?と桜は、ヨレヨレの頭で思わず考えてしまった。

「大丈夫ですか? なんか疲れてる?」
「う…うん。なんか疲れて家帰って、スコッチ飲んでたときに葵の手紙に気がついたから…」

 急いできたらちょっとヨレヨレになっちゃった。
 そう言って、桜は今の気持ちをごまかした。

「急いできてくれてうれしいですよ。おなか減ってます? 何か呑む?」

 桜はぶんぶんと首を横に振った。

「じゃー。出ましょう」

 大事なものを抱えるように、そっと葵は桜を抱きかかえながら、店を出た。
 そして暗がりで、誰もいないのを確認して、葵が桜を抱きしめた。

「ご、ごめんね。逃げちゃって」

 桜は葵の体温を味わってから謝った。葵はにっこり笑って、ぎゅっと桜を抱きしめなおして短くキスを落とす。それだけで葵が許してくれたことがわかってほっとして、桜も葵の頬に手を添えてキスを返した。葵は桜の体のどこかに触れつつ、ゆっくり歩いて、二人して葵の部屋にまで戻った。

 扉を開けて、そこでやっと長いキスが落ちてきた。桜はすでに子宮の辺りがずきずきするような感覚を覚えつつ、ボーっとしてしまって、うっかり考えたことを口に乗せてしまった。

「うん。やっぱ葵のキスって好き」

 ぴくりと首筋に当てられていた葵の手が反応した。

「キスだけ?」

 桜は思わず、お約束の突っ込みありがとうと、軽く笑って葵の唇を人差し指と中指でなぞった。その手をつかんで葵がさらにキスを深めようと顔を寄せてくる。それで、なんとなく気分が楽になったし、志岐に会議室で落とされたキスを忘れることが出来た。

「志岐さんとのこと、話したいんだけど聞いてもらってもいい?」

 唇が触れ合う直前に桜はそう言った。葵は答える前に、少しだけため息をついて名残惜しげに桜の唇を味わった。
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