あの日まではただの可愛い女《ひと》。
ソファに移動して葵が、コーヒーを淹れて桜に渡した。お互いが一つのソファーに隣同士に腰掛けて、向きあった。桜は、話したいといったがどこから話そうかと少し躊躇する。その躊躇を読んでか、葵が桜の手首に指を這わせた。
「桜さんがいやなら別に…」
「そんなことはないんだけど、どう話せばいいんだろうって」
「――。じゃー聞いてもいい? 志岐さんと付き合ってたの?」
「ううん。付き合ってはいないよ。ずっと仕事だけ。でも私にしたらかなり懐いてたかな。すごい仕事できる人だったし、いろいろ教えてもらえることも多かった」
葵の目を見つめているが、過去を思い出すような少し遠い視線に桜はなった。
「私は志岐さんが結構好きだったけど、ただ、彼は違ったんだと思う。彼は私が隆さんにくっついているのが、許せなかったんだとおもう」
「え?」
「彼が憧れていたのは隆さんなの。隆さんって太陽みたいな人ではあるんだけど、それだけいろんな人が、彼に強い感情を持つんだなーって思う。恋とか愛とかそういうものじゃなくて、どうして自分は同じようにできないんだろうって言う感じとか」
まさかの三角関係のような話に葵は少し面食らって、桜に先を促した。
「ずっと一緒に仕事をしていたら、彼の目線とか、気にすることってだんだんわかってきて、私とは仲良くしてくれて、一見可愛がってもらってるように思えるんだけど、時折すごく冷たい、推し量るような目で見られてることにも気がついたの」
あの時の桜は、とても感情的に幼い部分があって、その昏い感情に無防備だった。そして失敗らしい失敗もなく、隆の手元でのびのびと仕事をさしてもらっていた。
周りからは隆の懐刀として、評価もされ、必要とされるうれしさに胡坐をかいていた。だから志岐の感情の機微もわからず、彼を変えることができる、一緒にやっていけると思って、志岐の懐に飛び込んでしまった。
「きっとなんとかできる、志岐さんにも私たちの考えは理解してもらえる。そう思って素直に懐いたの私。志岐さんも大半は私を可愛がってくれてた、と思う。よくわかんないけどお互い好意もあったと思う。ただ、志岐さんの隆さんへの焦れるような気持ちを考えていなかったし、自分が会社でどういう風に見られているのかとかは全然考えていなかった」
「どういう風に見られているって?」
桜は少し寂しげな表情で、葵に微笑んだ。その表情で彼女がどれだけ傷ついたかということが葵にはわかった。
「隆さんの女だから優遇されていて、面白くて評価につながる仕事を優先的にまわしてもらえる。隆さんのウイークポイント。実際上は私も隆さんも、お互いそういう気持ちは持ったことないし、そんな余裕もなかったんだけど」
と、桜はまた笑った。切なくなって葵が、桜を軽く抱き寄せて、目の淵に溜まった涙を舐めとった。こんなに仕事に一生懸命でまっすぐに賭けてきたのに、それをそういう風に評されてるなんて…。桜がそれを知ったときにどれだけ傷ついたか、葵はそれだけで悲しくなった。
「別に最初から志岐さんも狙ってきてたわけじゃないと思う。あの人はあの人なりの誠意を持ってる人だから。ただ、私たちと仕事をしてしまって、隆さんに対する気持ちが膨れ上がってしまったのと、私が無用心だったから――」
大きなプロジェクトの作業のめどついて、二人で祝杯を挙げようということになって呑みに行ったあの夜のことを思い浮かべる。運用開始後の担当組織は安田常務―当時は取締役ではなかったが―の率いる組織ということで、運用後に何かが起こった場合に、立ち上げの大きなパートを担当した隆が攻撃される可能性があった。
だから桜は、志岐に穴はないか、運用後の心配事項などを確認を何度もし、お互いの組織で確実に責任を持ってプロジェクトに関わったことを証明しつつ、証拠を残して業務を遂行した。普段以上に気を使う仕事に大分疲れを感じてもいたし、それが無事終わったということで気も抜けたのであろう。
あっさりと、酔っ払った桜がふと気がつくとホテルにいた。
『桜のことを気に入ってるし、僕たちはうまくやれると思わないか?』
とってつけたような上っ面のセリフに思わず嗤いが漏れた。隆を傷つけるために、桜を利用しようとする、そんな志岐に嗤えたし、そこまで彼を追い詰めてしまった自分の無邪気さに自棄になった。ただ、志岐という人間をその時点までは素直に信じてたこともあり、何とか説得しようと桜は言葉を重ねた。
隆のことをわかっているということが、どれほど志岐を刺激するかも考えずに。
「私と隆さんの絆にさえ、嫉妬して追い詰められているっていうことに気がつかなかったの。志岐さんは私を手に入れれば、隆さんの手ごまを減らすことができるって、気持ちがそのときは勝っちゃったんだろうね」
『女なんて出世できない会社なんだから、賞味期限切れになる前に逃げたほうが楽だろ』
どんなにがんばろうと、女というだけで評価されない…。志岐の残酷な言葉に桜は冷水を浴びせかけられたような思いをした。ただ、そういう残酷な言葉を繰り出した志岐が泣いていることに気がついてもいたが。
「たぶんその時点までは志岐さんも、私が引けば許してくれたと思うの。でも私は…、私を傷つけて、それで隆さんが傷つくって思うなら傷つけてみればいいと思ったの。何をされても私は傷つかない。そう思って――」
『こんなことで、気が、済むなら、どうぞ』
桜はそうゆっくりと言って志岐をけしかけたことを、脳裏に思い浮かべた。
「私、それまでは自分は自分って思ってやってきたのに、その時になって、自分の『女』を使ったの。それが志岐さんを効果的に傷つけることができるって…瞬時に判断したのね。そんなことができる自分が怖かったし、とても効果的なことにも気がついた。コトが終わった後の志岐さんの顔が忘れられなかった。だからこの5年間、彼に会わないように逃げ回った」
とてもフェアじゃないでしょ?
当然来るであろう侮蔑の表情を予感しながら葵の顔を見つめて、桜はそう言って震えるように笑った。
「桜さんがいやなら別に…」
「そんなことはないんだけど、どう話せばいいんだろうって」
「――。じゃー聞いてもいい? 志岐さんと付き合ってたの?」
「ううん。付き合ってはいないよ。ずっと仕事だけ。でも私にしたらかなり懐いてたかな。すごい仕事できる人だったし、いろいろ教えてもらえることも多かった」
葵の目を見つめているが、過去を思い出すような少し遠い視線に桜はなった。
「私は志岐さんが結構好きだったけど、ただ、彼は違ったんだと思う。彼は私が隆さんにくっついているのが、許せなかったんだとおもう」
「え?」
「彼が憧れていたのは隆さんなの。隆さんって太陽みたいな人ではあるんだけど、それだけいろんな人が、彼に強い感情を持つんだなーって思う。恋とか愛とかそういうものじゃなくて、どうして自分は同じようにできないんだろうって言う感じとか」
まさかの三角関係のような話に葵は少し面食らって、桜に先を促した。
「ずっと一緒に仕事をしていたら、彼の目線とか、気にすることってだんだんわかってきて、私とは仲良くしてくれて、一見可愛がってもらってるように思えるんだけど、時折すごく冷たい、推し量るような目で見られてることにも気がついたの」
あの時の桜は、とても感情的に幼い部分があって、その昏い感情に無防備だった。そして失敗らしい失敗もなく、隆の手元でのびのびと仕事をさしてもらっていた。
周りからは隆の懐刀として、評価もされ、必要とされるうれしさに胡坐をかいていた。だから志岐の感情の機微もわからず、彼を変えることができる、一緒にやっていけると思って、志岐の懐に飛び込んでしまった。
「きっとなんとかできる、志岐さんにも私たちの考えは理解してもらえる。そう思って素直に懐いたの私。志岐さんも大半は私を可愛がってくれてた、と思う。よくわかんないけどお互い好意もあったと思う。ただ、志岐さんの隆さんへの焦れるような気持ちを考えていなかったし、自分が会社でどういう風に見られているのかとかは全然考えていなかった」
「どういう風に見られているって?」
桜は少し寂しげな表情で、葵に微笑んだ。その表情で彼女がどれだけ傷ついたかということが葵にはわかった。
「隆さんの女だから優遇されていて、面白くて評価につながる仕事を優先的にまわしてもらえる。隆さんのウイークポイント。実際上は私も隆さんも、お互いそういう気持ちは持ったことないし、そんな余裕もなかったんだけど」
と、桜はまた笑った。切なくなって葵が、桜を軽く抱き寄せて、目の淵に溜まった涙を舐めとった。こんなに仕事に一生懸命でまっすぐに賭けてきたのに、それをそういう風に評されてるなんて…。桜がそれを知ったときにどれだけ傷ついたか、葵はそれだけで悲しくなった。
「別に最初から志岐さんも狙ってきてたわけじゃないと思う。あの人はあの人なりの誠意を持ってる人だから。ただ、私たちと仕事をしてしまって、隆さんに対する気持ちが膨れ上がってしまったのと、私が無用心だったから――」
大きなプロジェクトの作業のめどついて、二人で祝杯を挙げようということになって呑みに行ったあの夜のことを思い浮かべる。運用開始後の担当組織は安田常務―当時は取締役ではなかったが―の率いる組織ということで、運用後に何かが起こった場合に、立ち上げの大きなパートを担当した隆が攻撃される可能性があった。
だから桜は、志岐に穴はないか、運用後の心配事項などを確認を何度もし、お互いの組織で確実に責任を持ってプロジェクトに関わったことを証明しつつ、証拠を残して業務を遂行した。普段以上に気を使う仕事に大分疲れを感じてもいたし、それが無事終わったということで気も抜けたのであろう。
あっさりと、酔っ払った桜がふと気がつくとホテルにいた。
『桜のことを気に入ってるし、僕たちはうまくやれると思わないか?』
とってつけたような上っ面のセリフに思わず嗤いが漏れた。隆を傷つけるために、桜を利用しようとする、そんな志岐に嗤えたし、そこまで彼を追い詰めてしまった自分の無邪気さに自棄になった。ただ、志岐という人間をその時点までは素直に信じてたこともあり、何とか説得しようと桜は言葉を重ねた。
隆のことをわかっているということが、どれほど志岐を刺激するかも考えずに。
「私と隆さんの絆にさえ、嫉妬して追い詰められているっていうことに気がつかなかったの。志岐さんは私を手に入れれば、隆さんの手ごまを減らすことができるって、気持ちがそのときは勝っちゃったんだろうね」
『女なんて出世できない会社なんだから、賞味期限切れになる前に逃げたほうが楽だろ』
どんなにがんばろうと、女というだけで評価されない…。志岐の残酷な言葉に桜は冷水を浴びせかけられたような思いをした。ただ、そういう残酷な言葉を繰り出した志岐が泣いていることに気がついてもいたが。
「たぶんその時点までは志岐さんも、私が引けば許してくれたと思うの。でも私は…、私を傷つけて、それで隆さんが傷つくって思うなら傷つけてみればいいと思ったの。何をされても私は傷つかない。そう思って――」
『こんなことで、気が、済むなら、どうぞ』
桜はそうゆっくりと言って志岐をけしかけたことを、脳裏に思い浮かべた。
「私、それまでは自分は自分って思ってやってきたのに、その時になって、自分の『女』を使ったの。それが志岐さんを効果的に傷つけることができるって…瞬時に判断したのね。そんなことができる自分が怖かったし、とても効果的なことにも気がついた。コトが終わった後の志岐さんの顔が忘れられなかった。だからこの5年間、彼に会わないように逃げ回った」
とてもフェアじゃないでしょ?
当然来るであろう侮蔑の表情を予感しながら葵の顔を見つめて、桜はそう言って震えるように笑った。