あの日まではただの可愛い女《ひと》。
 葵は帰国して、携帯が使えるエリアに入った瞬間に、桜の携帯にかけた。
 メッセージは相変わらず着信拒否を示すもので、葵はそのメッセージを聞いた瞬間にどっと疲労なのか、落ち込みなのかよくわからないものが襲ってくるのを感じた。
 重い足取りで、会社に戻る気力がわかず、マンションへと戻る。
 オールデンのウイングチップを乱暴に脱ぎ、放り投げるようにしていろんな荷物を床に落とした。
 ポール・スミスのジャケットも乱暴にソファーに投げ出した。もう何年も前にやめたタバコが吸いたくなるが、ぐっと我慢をして、気を紛らすために溜まった郵便物を選り分ける。

「――!」

 葵へ。という表書きが書かれた封筒を発見したときに、息が止まるかと思った。
 絶縁状だったらどうしよう?
 イヤマサカ。直感的にバカなことを考えてしまったのを否定する。
 ただ、どう考えても桜の手跡()で書かれたものなんだろうが、着信拒否されている事実が非常に堪えていたことを実感する。
 思わず正座して、しばしその封筒を見つめてしまった。
 少しどきどきとしながら、ペーパーナイフを使って封筒を開けて、震える思いで手紙を開いた。そこには着信拒否解除の仕方がよくわからず、調べようにも仕事が激化してしまい、まだ解除に至っていないこと。何も言わずに逃げてしまって申し訳ない。手紙を書くことしか今はできないことなどが綴られていた。

 最後に、『私も葵に会って話したいよ』と書かれていたのを見て、不覚にも胸が熱くなった。少しは気持ちをくれてるんだよね? わかってはいたが、それを確かめたくてしょうがなかった。

 ――俺ばっかり好きになっていく。ずるいよ、桜さん。

 しばらく蹲るように、胸を押さえていたが、葵はシャワーを浴びてすっきりしてから便箋を取り出した。


 どうせ今夜も遅くまで働くんだろうな、そう思って、荷物の整理と仕事の報告書を書いて会社に送ってから部屋を出た。桜のマンションに手紙を投函してから、何時に会えるかもわからないので、移動中に読もうと思っていた本を持つ程度の軽装で、待ち合わせに指定した2時まで開いているビストロに向かった。
 週の前半だからそれほど混んでいないので、長居しても問題なさそうだったことにほっとする。久しぶりに味わう日本の冷えたビールと、生ハムなどの冷菜をつまみつつ、本に集中した。

 一時間ほどして、いらしゃいませという声に顔を上げると、急いでやってきたんであろう、くしゃくしゃの桜が立っていた。自分に会うために急いでやってきたんであろう、そのくしゃくしゃな感じが心の底からうれしかった。自分と会うために装ってくれる桜もかわいいが、必死に急いでやってきてくれた姿が愛おしかった。
 逃げ出そうとするような迷いの表情がちらりと横切ったことを葵は気がついたが、一気に間合いをつめるのは、まずいこともわかっていた。
 ただ、葵と目が合った瞬間に、桜がよたよたと数歩、葵のほうに向かって歩いてくれたので、ほっとして彼女を抱え込むように迎え入れた。もうそれだけで、なんだかいいやという気分になった。
 何もいらないという彼女の返答を聞いて、店を出た。

 店を出てすぐに、誰もいない暗がりに桜を引きずり込んで抱きしめて、キスを思わず落としてしまう。
 柔らかくて、普段つけている口紅も何ものっていない素の唇の甘さに気が遠くなりそうになった。
 そして、自分がそんなにがっついてしまうほど、追い込まれていたことに苦笑した。桜が確かめるようにキスを返してきたこともクるものがあった。部屋の扉をくぐった瞬間にもっと桜の唇を味わいたくてその場で貪った。舌を桜の口内に入れて、彼女の唾液をすする。あまりの甘さにめまいがしそうだった。このまま押し倒すというよりも服を剥いで好きなだけ蹂躙しそうな気持ちをなんとか抑えて、唇を離した。

「うん。やっぱ葵のキスって好き」

 なのに、ぼーっとして目が潤っている桜に、そんな爆弾を落とされて、もうこのまま抱えてベッド行くしかないなっと手を伸ばそうとしたところに、『志岐さんのことを話したい』といわれて手が止まった。
 というか、『キスだけ?』って聞いたら、『お約束の突っ込みありがとう』って言うところも突っ込みたい。なぜそこで照れたり、フラグが立たないんだこの人は?とまじまじと葵は思ってしまった。

 っていうか、ここまでの道々のあの甘い短いキスとか、抱擁とかの意味をイロイロ考えてしまう。普通はアレは気持ちがつながったってことじゃないんですか?
 俺の感覚って変!? なんていうか、なんだろ、この人?みたいな、葵にしたら何をどう思えばこうなるんだ?と若干困惑する。

まだ俺に堕ちないの? 確かにそんな状況じゃないかも知れないけども、あの甘々な雰囲気はただの友人に甘えてるって事じゃないよね!? そこまだ認識してないんですか? 姐さん!? そう言いたくて仕方なかったが、ぐっとため息ひとつついてキスを落として我慢をした。

 葵はこのままでは、どうでもいいお説教を落としてしまいそうだと思い、コーヒーを入れて気持ちを落ち着かせ、桜の話を聞く。

 ――聞けば聞くほど、頭痛がしそうになった。
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